第11回 セカンドライフ考察編(5) :セカンドライフの相性分析
2007年8月 9日
■11-2. セカンドライフの相性分析
ここで、本題に入る前に補足をしておきたいと思います。前回、筆者は「セカンドライフ上で人影が見当たらないからといって、即座にセカンドライフの利用実態がお粗末であると指摘するのは、いささか早計かもしれない」と結語したのですが、この表現は誤解を招いてしまったかもしれません。誤解というのはつまり、「(現状セカンドライフに対するバッシングは激しいが、)セカンドライフは失敗ではない」と筆者が擁護しているかのような印象を与えてしまった、ということです。
しかし、筆者はそのようなことを主張したかったわけではありません。いま一度明確にしておけば、筆者の意図は、決して現状のセカンドライフは「失敗ではない」と主張すること――昨今のセカンドライフ・バッシングからそれを擁護すること――にはありません。これは筆者の論の運び方がまずかったのですが、前回の考察は、《セカンドライフは「閑散としている」ように見えるだけで、実際にはそうでもないんじゃないの》、と主張しているようにも読めてしまうものでした。つまり、「閑散としている」という印象は、セカンドライフのアーキテクチャが見せる一種の「錯覚」のようなもので、実際にはそうではないのである、と。
だが実際問題として、筆者はそこまでラジカルな主張をするつもりは全くありません。「閑散としているのは、メディアとしては失敗である」という線で議論するのであれば、「錯覚」だろうとなんだろうと、「閑散としている」という印象を与えてしまう時点で、それは失敗であるといわざるをえないでしょう。たとえば、日本の大手広告代理店がいま建設中という、「メタバース上に仮想の巨大都市を建設する」というアプローチは、完全にセカンドライフのアーキテクチャ特性を見誤った「ミスマッチ・プロジェクト」であるといわざるをえない。「東京」を再現するというその言葉を聞けば、人はどうしても、「六本木ヒルズ」や「東京ミッドタウン」のように、数え切れない程の人々がひしめいている風景を期待しながら「バーチャル東京」を訪れてしまう。しかし、実際にはそこに数十人しかいないとなれば、「期待外れ」になるのは必定です。
――以前、本連載では「アーキテクチャとコンテンツの相性分析」という言葉を使いましたが(第4回)、むしろ現状のセカンドライフのアーキテクチャ特性を鑑みれば、「限られた人を招待する」というシークレット・イベント/密室パーティー的な使い方のほうが《相性がいい》と思われます。参加者には、自身のブログ等でその体験レポートをスクリーン・キャプチャつきで紹介してもらえばいいのであって、何もセカンドライフ上で「数多くの人にリーチしなければならない」という法はないわけです。これはつまり、「セカンドライフそれ自体が欠陥を抱えている」という見方ではなく、「セカンドライフを《使う》側がそのアーキテクチャ特性を活かしきれていない」という見方も可能だろう、ということです。
前回の補足は以上です。ただし、筆者の主眼はまた別のところにあり、それは次のような「アーキテクチャの比較分析」を行うことにあります:「真性同期型アーキテクチャ」が必然的に抱えてしまう「過疎化」という問題を、ニコニコ動画という「擬似同期型アーキテクチャ」はいかにして回避しているのか?
濱野智史の「情報環境研究ノート」
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