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合原亮一の「電脳自然生活」

環境問題から生き方まで、地球ととことん付き合う方法論を模索する。

食料を自分で作る理由(4)

2009年8月 6日

普通「安全な食料」と言うと、「食べても問題がない良質の食料」という意味だろう。しかし僕にとって「安全な食料」には、質だけでなく量の意味もある。必要なだけの食料がちゃんと調達できるか、という意味だ。正確には「安全な食料」ではなく「食料の安全」と言うべきなのかもしれない。わが家版食料安全保障ということだ。

こんなことを考えている人は多分珍しいと思う。しかし多くの人は、日本の食料自給率が非常に低いことを知っているだろうし、日本の農業で耕作放棄が増え続けていることも、新規就農者が非常に少ないことも知っているだろう。つまり日本の食料生産の将来が危ないことは、誰でも知っている事実だ。

日本の経済力についてはどうだろう。日本の貿易が2008年下半期に赤字だったことや、GDPで中国に追い抜かれるのが時間の問題だということも、多くの人が知っているだろう。つまり日本ではあまり食料を作っておらず、今後の食料増産の目処も立っておらず、不足している食料を輸入するための経済力が維持できるかどうかも疑問だ、というのは日本の常識なのである。

もうひとつ。僕の専門の環境問題の研究からも、人口圧力による環境容量の圧迫によって、世界的な食料不足が起こる可能性が十分高いことが示された。つまりお金があっても食料が買えない時代が来るかもしれないのだ。これだけの材料が揃っているのに、なぜみんな脅威に感じていないのだろうか。なぜ政府は日本の食料を増産しようとしていないのだろうか。

この疑問が、「食料を自分で作る理由(1)」で触れた、「現代社会の都市生活が、必ずしも個々の人にとって幸せではないのではないかという疑問」につながって行く。今や農村部に住む人の比率は非常に低い。地方都市も含めると、日本のほとんどの人は都市に住んでいる。都市生活を支えるのは、流通システムをはじめとするサービスシステムであり、製造生産の現場は隠蔽されている。モノとリンクしているのはカネだけであり、カネこそが世界の本質というイメージが刷り込まれて行く。

食料危機が現実のものになった時、多くの人はどう対応するのだろうか。まず食料を買うためのカネを確保しようとするのではないだろうか。しかし絶対的な食料不足に対してカネで対応することは、限りある食料を奪い合おうとする行為に他ならず、直接的な殺人行為に他ならない。

誰が考えても正しい行動は、食料の増産に協力することである。しかし都市生活をしていると、その程度の想像力さえ奪われてしまうのだ。実は今現在も途上国を中心に、毎日2万4000人が餓死しているという現実がある。分配の問題もあるが、自分で少しでも食料を生産し、少しでも食べ残しなどの無駄をなくせば、国際食料需給がそれだけ緩み、より多くの人の口に食料が届けられることは間違いない。

しかし都市で生活していると、自分の身の回り、つまり人工環境以外への関心やリアリティーを喪失してしまう。僕自身も、都市生活をしている時は、天気や気温についても無自覚だった。アメリカ生活で、たまたま田舎の方に住んだことが、そうした気付きを後押ししたというのは皮肉なことだが、僕は環境問題や食料問題に対して、少しでも自分が出来ることをしたいと言う気持ちになった。そしてそれは都市生活をしていては難しい。

目の前の飢餓を少しでも減らそうと思い、少しでも日本の食料生産を増やしたいと思い、少しでも自分自身の将来の食料安全保障を実現したいと思うと、僕にはどう考えても自分が田舎に住んで、農業技術を身につけ、食料自給体制を作って行くしかないと思えるのだ。というより、それ以外の結論は思いつけなかった。

実際には食料の完全自給は難しい。最近も米の備蓄が底をついてしまい。久しぶりに米を買う生活に戻った。家族が倍に増えたという事情があるとは言え、昨年の米作りが今ひとつだったことが大きい。食料危機なら、これから3カ月どう暮らして行くか考えねばならなくなるところだが、食料を購入できると言うのはありがたいことだ。もちろん食料の完全自給など目指す必要もないと思っている。

だが、必要に迫られれば、自分が生産した作物だけで生きて行くことができる規模の農業と、必要な技術を身につけたいとも思っている。わが家の場合、米がなくても1カ月ぐらいは備蓄のジャガイモで乗り切れるし、今作っているジャガイモを収穫すれば、秋に米が出来るまで食いつなぐことも可能だ。だが今後は、環境問題の存在を考えると、気候変動やエネルギー源の問題があり、このささやかな目標すらも、果てしなく困難に思えていた。でも最近、少し希望を感じるようになってきた。その辺りは別に書きたいと思う。

5年10年で食料不足が起こるかは分からないが、20年30年の単位なら起こる蓋然性は高いと僕は思っている。データの信頼性が高く無いので断言はできないが、自分が作ったシミュレーションモデルでいくつかのシナリオを検討した結果、水が一番の制約条件になって食料不足が起こるという結論が出ているからだ。

自分がまだ生きていて、自分の孫の世代が幼い時代に食料危機が起こる可能性があるなら、すぐに対応するための行動を取らなければならない、というのが自然な結論だと思うのだが、多くの人がそう思わないのが不思議だ。それでも幸い最近農業がブームになりつつあるようだ。僕と同じように感じる人が増えて来たのなら素晴らしいことだ。ただ過去も周期的に田舎暮らしへの関心が高まり、そして消えて行ったので、つい懐疑的になってしまう。もちろん都市の方が効率の良い面も沢山あり、環境問題の観点からは都市か農村の二者択一は良く無いと思う。

農業に関心を持たなくても、今の都市生活を見直してみて欲しいと思う。子供が育つ環境としては自然が必要だというのが僕の考えだが、都市にも自然があり、ベランダや屋上でも野菜を育てることが出来る。自然に対する感覚を取り戻すこと、複雑で雑然として、微生物一杯の生命があふれた自然を「汚い」と思わないようになること。ばい菌やにおいも自然の営みと思えるようになること。その辺りから、自分自身の本当の感覚が取り戻せるのではないだろうか。

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プロフィール

川崎重工業人事部・川重米国本社CFOを経てガリレオに参加。ガリレオの業務の傍ら、環境問題、食糧問題に関心を持ち、「電脳自然生活」を目指して有機農業で米、野菜を作る。

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