第1回 アナログとデジタルの狭間にあるもの
2007年8月 7日
■まずは自己紹介 BCLからエアチェック
WIREDの再開をまずは喜びたい。このエッジの感覚はやはりなんとも言えず素直に楽しい。形式がブログになるので、今までよりも気楽な感覚で書いていきたいと思うが、いずれにしても切り口を大事にしては行きたいと思う。
1999年頃からHOTWIREDには寄稿させていただいているが、これまではジェネレーション的には新と旧というまさに「繋がっているか」「繋がっていないか」が重要であり、過去を破壊し、創造的破壊こそが重要であるという論調も多かったかもしれない。しかし2007年の現在私も40歳になり、ジェネレーション的にはナナロク世代、プロフ世代など下も重層的になってきたこともあり、これまでのような2元論でも無い状況が見えつつある中で、自分の世代認識も確認する意味でまず初回は自己紹介から始めたいと思う。
私は1967年東京生まれで、小学生の頃はBCLという海外の短波放送をラジオで聞くブームがあった。これはURLならぬ周波数をあわせて遠い海外のラジオ局のコンテンツにアクセスするのが楽しみであり、リアルタイムに国境を越える感覚はこの時に初めて感じたものである。ハンダゴテでやけどしながらトランジスタラジオの自作もし、ハードウェアをブラックボックスのままにしておくことは許されないない感覚があり、同時に中身と仕組みを理解することもそれほど難しくはなく楽しかった。そのまま中学生では規定路線のようにアマチュア無線の免許を取得し、現在のチャットに相当するラグチューという行為を近所の仲間と5-10人で行っていた。考えてみれば無線は半二重(片方がしゃべっている時は片方は聞こえない)通信ではあるが、電気代だけの常時接続環境であり、いつも同じ周波数で待ち合わせておくと24時間全員つなぎっぱなしという感じであった(DoCoMoの提供しているプッシュトークはこの感じ)。何か事件が起きるとすぐに無線で情報交換したり、同じテレビを見ながら感想を言い合うなど今のチヤットが音声で行われている感覚であった。
そして当時の少年は誰もがはまるエアチェックも大事な趣味。今風に言えば放送コンテンツをアーカイブ化する作業であり、お金の無い我々少年には貴重なコンテンツであった。当時は気合いを入れて有償で購入するレコードとテープ代だけで友人の間でテープをコピーして流通させるものをうまくバランスさせることで自分の貴重なコレクションを集めていくことが楽しみであった。もし、当時の我々が全部自分で購入した音楽以外は音楽を楽しむ手段が無かったとしたら、ラジカセは普及しただろうか、ウォークマンは普及しただろうか、現在の音楽文化や音楽市場が成立しただろうかと、私的複製をできるだけ排除する方向に議論している人々に再度問うて見たいことである。
■PETからスパークステーション
そして、いよいよデジタル時代、パソコンとの出会いは中学生。最初にいじったのはコモドール社のPETであった。まだアナログテープで読み込みと保存を行うタイプで、セーブ時の音量と違うだけでロード時にエラーがでてしまう状況。さらに長時間使うと熱暴走するのでゲームで少し遊んでは冷ますということを繰り返していたものであり、ビジネスの人々にはまだまだであっただろうが、自分の書いたプログラムにより機械を動かすことができるという事実が子供にその未来を感じさせるには十分すぎるものであった。
やがて高校になると98シリーズが登場し、パソコンの世界も一気に実用の世界に向かうのであるが、まだまだマニア全盛期。自分にオタク要素があるが故にそのオタク的世界に突入することに危機意識を感じ、音楽の方のバンドに注力するようになる。しかし、そのことが逆にコンピュータの可能性を強く意識することになった。おりしもシンセサイザーがコンピュータ化され始め、MIDIという音楽とパソコンをつなぐことができるインターフェイス規格が登場し、そのことがパソコンを毎日いじることを目的とするのではなく、音楽を創造し、演奏するためのコンピュータ時代の到来を実感することとなる。映画では1982年にTRONという初めてCGを全面的に多用した作品が作られていたが、それよりも同時期に登場したバリライトというシステムがコンサート会場で音楽に合わせて照明が色や明るさや方向を自由に制御している様を見る方が衝撃を受けた。それはプログラムが人々の感動に使えることを実感する大きな出会いでもあったからである。
大学に入ると、いよいよプログラマーとしての一歩を踏み出す。C言語が注目されていたタイミングであり、ゲームからビジネスソフトまで幅広く仕事があり、掛け持ちで何本も作成していた。しかし、中でも一番重要だったのは何気なく大学の掲示板でみたある研究所の研究補助のアルバイトだった。それは国の助成金を活用した電子図書館の研究所で「テレマティーク国際研究所」という名前であった。当時飛ぶ鳥を落とす勢いのアスキー西社長も役員でアルバイトにも関わらず時々お会いすることができた。そこで当時UNIXのワークステーションの最新鋭であるサンマイクロのスパークステーションを一台占有しながら実験することができた。まだ常時接続されていないネットワークは9600bps(当時はこれでも最速だったのだ)のトレイルブレイザーモデムで定期的にUUCPというバケツリレーのプロトコルで運ばれていたので、大学からアルバイト先にメールを出してアルバイト先に行くとメールはまだ着いていないなんてこともしょっちゅうで、途中の経由地点になっているサーバーのハードディスクが小さいとメールが溢れてロストするなんてことも珍しい時代ではなかった。
■ WIDEからMosaic
やがてWIDE実験の中でIP常時接続環境になり、バイト先のコンピュータから大学の友人のコンピュータの画面を上下逆さまにするなどのいたずらができるなど、コンピュータとコンピュータが繋がり放しになることの意味を実感することになる。しかしまだ当時の日本のインターネット上のコンテンツはJUNETという学術ネットワークの中のニュースグループが中心であり、そこでビジネスを行うことは御法度であった。ビジネス的な書き込みをニュースグループに流そうものなら、抗議のメールが大量に来る。シグネチャーは4行までというルールもあり、5行のシグネチャーでニュースに投稿しようものなら、「君はこの1行のバイト数が世界中のインターネットのリソースにどれだけ負担をかけるのか理解しているのか?」と怒られる。そんな時代であった。しかし、そこには日本中の研究者の知識が集まり、日々交換されていた。多くのプログラムも日々改良され流通していた。オープンに誰もが参加し、共有しあう知識情報こそが社会の価値であることを何よりも実感できる原体験であった。
やがて野村総合研究所に就職し、情報通信ビジネスのリサーチコンサルティングの仕事に携わることになるが、当時91年はニューメディアブームの残骸である第三セクターの大赤字のCATVやキャプテンという失敗したビデオテックスのパソコン通信網などが存在し、情報通信ビジネスに対する冷ややかな眼も存在した。実際当時インターネットの説明に行くと「これはキャプテンと同じでまた失敗するでしょう」という発言をよく言われたものである。そして忘れもしないのは93年末、Mosaicのβバージョンの登場である。WWWとそのブラウザによる「世界中のあらゆるデジタルファイルへの容易なアクセス」はそれまで使っていたftpやGopherなどによるファイル転送の世界とは明らかに違う次元がそこにはあった。そしてそこからいよいよインターネットのビジネスとしての挑戦が始まることになる。
そこからは現在いたる14年間であるが、WWWとMosaicに出会うまでの20数年の間にアナログ技術によるコミュニケーションやコンテンツ体験はデジタル技術の本質的なイノベーションをより実感することにとても大切な意味を持っていると筆者は感じている。最初からデジタルな世代の感覚が理想する社会システムと抵抗勢力がたくさん存在するこれまでの社会システムとは今後10年はまだ共存させることが求められる。一方産業構造も社会システムも確実に、かつ急速に移行させていくことが求められるのも事実である。この難しく重要な10年において、我々アナログとデジタルの狭間体験世代の役割はとても重要な意味を持つことを意識しつつ、この連載を進めてみたいと思う。読者の多数の意見などもメールやトラックバックなどでいただければ幸いである。
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