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藤井敏彦の「CSRの本質」

企業の社会的責任(CSR)とは何なのか。欧米と日本を比較しつつ、その本質を問う。

非財務情報(ESG情報)の開示について考える

2010年8月 3日

(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら

ジュネーブ出張の後は恒例の時差ボケである。只今時刻は朝の4時半。睡眠誘導剤の薬効の甲斐なく東京の夏はもう明るい。これで二晩連続睡眠時間ゼロ(涙)。今回はこの妙に覚醒した頭で単純そうで実は深遠な「情報開示」について考えてみたい。

EUが昨年来開催してきた非財務情報(環境、社会、ガバナンス情報)のワークショップが今年2月で一旦終了した。特定の方向性は打ち出されず、「開示したければどうぞ」的に企業の自主性に委ねているEU会計現代化指令のアプローチを維持するのか。なにがしか義務化の方向に動くのか。今の段階では何ら示唆は示されていない。しかし、ワタシは確信するのである。今後10年以内に非財務情報の開示は必ず義務化されるだろう。

なぜそう考えるのかを論じるにあたり少々本業に寄り道をしたい。通商の世界では「情報開示」という言葉よりもどういうわけか「透明性(transparency)」という言葉が好まれる。意味は同じ。WTOドーハラウンドの大半の交渉分野で「透明性向上」が重要な交渉項目になっている。例えば、アンチダンピング交渉では、ある国が輸入品にアンチダンピング関税をかける決定をした場合、関税率の計算についての詳細情報を開示すべしとの提案がされている。OECDの貿易委員会でも日本は透明性に関する新提案を出した。いわば国内規制の「国際的見える化」である。

「民主主義の赤字」という言葉、耳にされたことがあるだろうか。EU用語である。EUの法律や規制の案はブラッセルにある欧州委員会がつくる。ブラッセルの官僚達が生み出す法律や規制は、西はポルトガルから東はポーランドまでEU加盟各国の市民の生活に影響を及ぼす。しかし、各国の市民の声がEUの政策に直接反映される道筋は細い。議会はもちろんある。欧州議会である。欧州議会の発言力は最近強化されつつあるが、それでも普通の国の国会ほどの力はない。例えば、欧州議会は法案提出権を持っていない。EUでは日本の霞が関にあたる欧州委員会が非常に強い権限を有しており、十分な民意が政策に反映されない。これが「民主主義の赤字」である。

もちろん、別にこれはEU官僚の陰謀とかそういうものではない。超国家組織であるEUの宿命と言える。いや、超国家組織をつくるための宿命だった。欧州統合の道のりはあえて「非政治化」されてきた。もし各国の民意がEU政策に強く反映されてきたらEUは今日果たして存在していただろうか。気まぐれな民意に振り回され結局欧州統合はままならなかったかもしれない。日本のプレスは「草の根」という言葉をこよなく愛するが、ヨーロッパ各国の「草の根」の民意はEUなどという政治統合体の出現を決して望んでいなかった。ヨーロッパは欧州統合を成し遂げるために政策立案過程を草の根から切り離し「民主主義の赤字」をあえて背負い込んだのである。日本の「官僚主導」はメディアの豊かな想像力の産物だと思うが、EUの官僚主導は筋金入りだ。欧州統合が進展をし、ブラッセルでつくられる諸規制が例えばリサイクルのように市民生活に直接的な影響を及ぼすようになった今日、この負の側面が強く意識されるようになった。これが「民主主義の赤字」なのである。

しかし、EUの中であればまだ対処の方法はある。ひとつが欧州議会の権限強化だ。ポーランドの市民は自ら選んだ欧州議会議員を通じてEUのルールづくりに意見を反映させることができる。しかし、ポーランド同様EUのルールの影響を受けるからといっても日本の場合そうはいかない。EUの規制のために日本からの輸出が困難になることも当然あり得るが、だからといって日本選出の議員が欧州議会で規制の撤廃を提案するなどということは、当然のことながら起こりえない。日本はEUに加盟していないからだ。

ワタシがブラッセルにいたとき地方の中小企業の社長さんからかかってきた電話は鮮明に覚えている。下請けの下請けとして自動車部品を作っているというその会社では、取引先からある化学物質を使っているか聞かれた。使っている旨答えるとしばらくして取引停止になったという。社長さんに私はEUルールについて説明することで答えに代えざるを得なかった。当時EUは世界に先駆けて自動車中に使ってはいけない物質を指定したのだ。当然、日本にはそのような規制はなかった。日本の地方の中小企業の仕事が、あずかり知らぬ外国の地で決められた規制によって失われる。国内法上は何の問題もないのに。グローバリゼーションの怖い一面だ。この場合、日本国内のルールがどうなっているかにかかわらず、日本の産業が実質的に服しているルールはヨーロッパのルールなのである。EUルールは法的にはあくまでEU内のルールに過ぎないが、事実上日本の産業を規律してしまっている。

ある国や地域のルールが国の外にまで影響を及ぼすとき、影響を受ける外国の市民や企業の目には解消困難な「民主主義の赤字」問題が映るのである。そこで規制をつくる国はその過程で海外の利害関係者に情報を提供し、コメント提出機会を与えるべきだという議論になる。ある国のルールがその国の市民や企業だけでなく他国の市民や企業も巻き添えにする以上、巻き添えにされる側は国境を越えて声を発する機会が与えられるべきだという発想である。そして、巻き添えにされる側が意見を表明することは歓迎されるべきことであるとも考えられている。でなければ最適なルールはつくれないからである。

規制の「国際的見える化」は、限定的ながらも国境を越えた「民主主義の赤字」に応えようとするものだと小生は考えるのである。本当は世界政府が民主的に規制を決めるべきだが、そうはならない。政府の所業を透明にし、必要があれば外国からもモノ申すことができるようにすることは、国民国家を基本単位とする今日の世界システムと、ある国家の規制の影響は国外に容易にスピルオーバーする現実をなんとか折り合いをつけようとする努力のひとつなのである。

さて、このように通商政策の世界では投票権を持っていない外国の政府や企業が一定程度政策決定過程に関与できるように各国の政策の透明性の向上が図られている。同様のロジックを使えば、CSRにおける非財務情報の開示は株主ではないが会社の事業によって環境上もしくは社会的な影響を被るステークホルダーに一定の発言機会を与えるものととらえられる。BPによる海洋汚濁事故の被害者はBP社の株主でないとしてもBP社に対して情報公開を求める権利があると考えるだろう。前者が「国境を越えた民主主義の赤字」への対応であるとすれば、後者は「市場を超えたガバナンスの赤字」への対応とでも言えるだろうか。言うまでもなく情報開示はガバナンスの基本である。

価値観が多様化し、IT技術の進歩で価値観の表明が簡易になった今日、「360度ガバナンス」は止まらない趨勢であろう。しかし、非財務情報の開示が義務化されるだろうと考える理由はそれだけではない。

価値観が多様化すればするほど合意は困難になる。やや極端な例を挙げれば、企業における女性の登用についてイスラム圏と欧米は正反対の意見である。今後両者の見解が収れんするかどうかは小生にはわからない。しかし、ひとつ確かなことは、女性の管理職への登用を是としない立場をとることは、必ずしも管理職に占める女性の比率の開示に反対することにはつながらないということである。女性の登用が社会にとって善ではないと考えるのであれば、堂々と情報公開をして男性比率の高さを誇ればよいのだ。イスラム圏の会社はきっとそうするだろう。情報開示の反対概念は「秘匿」であり、秘匿が善であるという議論はどの社会でもなかなか困難だ。価値観がぶつかり規範的な合意に至ることが困難であればあるほど、情報開示は数少ない合意可能な要素として浮かび上がるのである。非財務面の透明性の向上、情報開示の促進は、非財務面での規範的合意が困難であればあるほど、多様な価値観が許容されればされるほど要請されるのではないかと小生は思うのである。

内部の構成員の監視のみではなく部外の利害関係者の監視を受け入れる「360度ガバナンス」は今後変わらぬ趨勢であろうこと、透明性は文化的違いをこえて合意できる数少ない原則であること、このような理由から非財務情報の開示はいずれ義務化されると小生は確信するのである。

読者諸賢には言うまでもないことであるが、当たるも八卦当たらぬも八卦、である。

p.s. この原稿を書いて数日後、人事異動のお達しがあった。新聞で御覧になった方から「留任?」とお問い合わせがあったのだが、さにあらず。今の仕事はお仕舞いである。もっとも、物理的には部内で少し横にずれることになっただけでしぶとくWTOの仕事を続けるのであるが、交渉の前線に出ることはもうあまりない。ついに時差ぼけの魔の手を振り切ったわけだ。しかし、同時に原稿のイントロを出張ネタに頼る常套手段を封じられてしまった。さて、東京に籠城と相成った「CSRの本質」、新機軸を打ち出すことはできるのだろうか?

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プロフィール

1964年生まれ。経済産業研究所コンサルティングフェロー。経済産業省通商機構部参事官。著書に「ヨーロッパのCSRと日本のCSR-何が違い、何を学ぶのか」、共著に「グローバルCSR調達」がある。

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