新エコ・マーケティング戦略:「贖罪エコ」
2009年8月 3日
(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら)
読者の皆さん、一月ぶりです。お元気ですか。例によってスカンジナビア半島からシベリアにかけての上空で原稿をしたためています。
パリに居を構えるOECD(経済協力開発機構)の仕事でした。日本国政府のある提案についてコンセンサスを作りに。国際機関という代物、なかなかとらえどころがない。能動的に動いて反応をみるのが一番。生き物みたい。ひげ引っ張ったら怒るんだ、猫は、みたいな(笑)。顔引っ掻かれるのもギャラのうち。でも今回はちょっと痛むな。。。
ということで、夏も盛り、今回はエコ・マーケティングを取り上げます。CSR界のシーア派を自認するワタシもジハードに倦怠、夏らしくポップでコマーシャルな路線でいきます。少し前ですが、雑誌「オルタナ」の森編集長と対談企画がありました。平日の遅い時間に聞きにきてくれた皆さんとの懇親会もあって、楽しく勉強になりました。そんななかでエコ・マーケティングについて再考したわけであります。
「マーケティング」とは売るための技術。ビジネスたるもの売らないことには話にならない。ネコの手だろうが、エコの手だろうが、借りられるものはなんでも借りないと。で、「エコの手」はどうすれば借りられるかを考えてみます。単純な公式化を試みます。日本のお客様は次の二つの場合、エコ・アピールに反応します。ほかの場合はまずしません。
- 自分の健康や安全がかかっている場合
- 自分の財布が傷まない場合
ビジネスの現場におられる方からはそれほど強い異論は出ないと思います。まず、最初の「自分の健康、安全」ですが、これまさに「ロハス」ですね。ロハスは近年登場して瞬く間に拡がった優れたマーケティング・コンセプトです。CSRと重ねられることも多いですが、両者の関係はやや複雑。ここでちょっと寄り道。
ロハスの本質は有機食品にあるように思います。ヘルシーなライフスタイルのためにプレミアムを支払う消費者。ただ、「合成の誤謬」に注意。すべての人が有機野菜を求めれば世界の食糧問題はますます深刻化する。有機野菜の値段を思えば説明は不要でしょう。単位面積当たりの収穫量も減るので新しい農地が必要になり森林の喪失も進む。一般化すれば、誰もロハスといって見知らぬ世界の環境や異国の人々の食糧確保のために出費するわけではない。一方、CSRはグローバルなサステナビリティを求める公共(利他)概念であり、両者の関係は簡単に割り切れない。むしろ別のものと整理すべきではないかと思うのであります。
本論に戻って、二番目の論点「財布を傷めないエコ」です。現代日本における現人神であるところのお客様の財布を痛めずにいかにエコ・アピールで販売を伸ばすか。一つは、もちろん「プリウス」アプローチです。要すれば「お買い得エコ」。財布痛めないどころか、ゆくゆくはお釣りがきます、っていう。「長い目でみたらこ〜んなにお得っ!」なエアコンとか。
ただし、もちろん「お得」がすべてではありません。心あるお客様は、仮に「こ〜んなにお得」ではないにしても追加的出費がともなわなければ環境に優しくありたいと願っておられます。言わば「お値段据え置きエコ」。再度単純化を試みれば、企業側がどこにコストをかけるかという問題になる。コストのかけ方の自由度という点では、マーケティング費用なんてその最たるもの。例えば、CMに有名俳優を起用するのに大枚を叩くか、それとも、原生林を守るNGOへの寄付をフックにして顧客の関心を引くか。オルタナさんの懇親会でマーケティング会社の社長さんから教えていただいたのですが、バナー広告のクリックの度合いは、一回のクリックにつき一定額を社会的に意味ある事業に寄付するという仕掛けを組み入れると跳ね上がるそうです。
「エコなんで1割割高になっております。お支払いください。」なんてのは駄目。肝要なことは、お客様に経済的負担をかけずにエコ的な気持ちよさを味わっていただくことです。かかるエコ・マーケティングは、貴社の製品がコモディティ化している場合、とりわけ有効でしょう(森編集長の受け売り)。近時の成功例がボルヴィックさんです。同社はHP上で次のように述べておられます。
「いまボルヴィックは、ボルヴィックの売り上げの一部で、ユニセフの活動を支援しています。それはアフリカで飲料水を確保するための井戸づくり、及び10年間に渡るメンテナンスを行うこと。お客様のお買い上げ1リットルあたり、10リットルの水がアフリカの井戸から生まれるのです。」
(出所:http://www.volvic.co.jp/1Lfor10L/about/index.html)
さて、この成功例をぐっと睨んで先を読みましょう。眼光紙背に徹す。「お値段据え置きエコ」をサイコロジカルに深化させた新しいエコ・マーケティング戦略の姿が浮かび上がってくるではありませんか。その名は「贖罪エコ」。
市場経済は物質的自由を拡大し続ける。昔は水道水。今は選択の自由がある。そのことが地球環境の悪化を引き起す。かかる物質的自由を「消費者」として行使する我々。「贖罪エコ」はこの罪悪感をあがなう機会をお客様に提供し、心おきなく自由を行使していただくというマーケティング戦略です。そうです、「贖罪エコ」のコンセプトモチーフは、中世の「免罪符」。中世ローマカトリック教会の免罪符販売の大成功は、適切な工夫を施すことによって衆生の「罪の意識」から商業的価値を生み出すことが可能であることを物語っています。
水を例に考えましょう。ミネラルウォーターは美味しい。体にも良い。でも皆様ご存じのとおり、様々な環境破壊を引き起こしている。ヨーロッパでは社会的批判が高まり、水道水愛飲運動が起こっています。でもロハスな人々(小生もその一味)は水源地で汲まれ、工場でプラスチックのボトルにパッケージされてガソリン使って運ばれてくる水が手放せない。この二律背反を商機につなげる。例えば、売上の一部が水源保護に使われる、という仕掛け。ミネラルウォーターをスーパーのかごに入れる瞬間に感じる小さな罪悪感を消してくれるかも。
ポイントはですね、一般的なコーズ・リレイテッド・マーケティングに比べ顧客心理にピンポイントなところ。漠然とした「良きこと」のプロモーションではなく、「悪しきこと」を消すことにフォーカスされたアプローチ。途上国の学校建設への寄付は「良きこと」。しかし水の罪は水に流すのが一番。
もちろん仮説にすぎません。消費者は、自らの購買決定が直接引き起こす害悪を償うというアピールに、より強く反応するのではないか。リンボーを彷徨う「エコ」ゴコロは、贖罪の機会を与えられることによって商業的昇天を果たすのではないか。マーケッターのみなさん、新コンセプト「贖罪エコ」マーケティング、コラボして掘り下げませんか?
少し真面目な視点からみましょう。「贖罪エコ」マーケティングを実施するための前提は、会社が自社への社会的批判をきちんと認識していること。また、NGOから糊塗策だとの批判が投げかけられるリスクもあります。したがってコミュニケーション能力も必要。国際機関とタイアップすることで「正統性」を確保しておくことも一案です。やや戯画的にプレゼンしましたが、実はCSRをまじめに考え、CSRと事業との関係を戦略的に構築できる会社しかできない難易度の高い手法です。
ちなみに本物の免罪符の顛末です。免罪符の成功は、ご存じのとおり、宗教改革を誘因。「プロテスタント」という一大新勢力を生みヨーロッパは宗教的にも政治的にも二分されます。守勢にまわったローマカトリック教会は、巻き返しに転ずる。この動きは「反宗教改革」と呼ばれます(この否定的ニュアンスを持つ呼称は、当然のことながらプロテスタントの学者の命名によるもの)。「反宗教改革」は様々な形で展開されました。一つは外の世界への積極的布教。1549年にザビエルさんが遠路来日されたのもこの一環。また、神の威光を伝えるため芸術も動員されました。教皇の庇護の下ミケランジェロなどの天才が輩出。バロック様式の教会が各地に建立されるなど貴重な文化遺産を形成したのです。
免罪符は、池に投じられた小石が波紋を描くように後の歴史に様々な影響を与えたわけです。日本の歴史にさえも。もし免罪符がなければ、歴史は異なった経路を辿ったのでしょう。環境破壊の原罪を背負った我々現代人の「贖罪」の希求は、はたして未来の進路を変えていくのでしょうか。そうなのかもしれません。一つだけ確かなこと、それは「市場の誘惑」という中世には存在しなかった今日的宿命との折り合いをどう付けるか、我々は考え続けなければいけないことです。そのプロセスそのものが未来を形作る、のかもしれない。
ポップに出たのに、エンディングはグレゴリア聖歌風だ(笑)。
藤井敏彦の「CSRの本質」
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