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藤井敏彦の「CSRの本質」

企業の社会的責任(CSR)とは何なのか。欧米と日本を比較しつつ、その本質を問う。

会社は誠実でも不誠実でもない

2009年7月 6日

(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら

CSRの将来を語るとき、次のような考え方に接することは少なくありません。「理想は会社にCSRの専門組織がなくなること。CSRの考え方が社員の一人一人に浸透すれば専門部署はいらない」。多くの方に共有されている考え方かもしれません。しかし、小生は質問の衝動に駆られます。「そうすると、社員一人一人がマーケティング・マインドを持てばマーケティング部も不要になるということでしょうか?」

CSRを「一人一人の心掛け」の問題だと見るか、専門性が求められる経営技術を要する事柄だととらえるか。小生、後者の立場に立ちます。他方で一人一人の「心掛け」に意味がないと考えているわけではありません。持続可能性について考えをいたすことは良いことだと思います。やや弁解がましく聞こえますか? そうかもしれません。と申しますのも、先日お目にかかった読者の方が一言。「藤井さんってブログから受ける印象とちがって意外にイイヒトなんですね(下線は筆者による)」。確かにメインストリームな意見に反駁ばっかりしていたけど、しかし、それにしてもいつの間にか業界のヒール(注)。。。

(注)プロレスのヒール(Heel)とは、プロレス興行のギミック上、悪役として振舞うプロレスラー、あるいはラフファイトや反則攻撃・挑発行為を得意としたり、好んで使用するプロレスラーのこと。(出所:ウィキペディア

えーワタシ、「愛される会社」について熱弁を振るわれている先生に向かっていきなりパイプ椅子を振り上げて突進する、左様なことは決して致しません。ご心配の向きのために念のため。ただ折角の機会でありますので、整理しておきたいと思います。組織としての会社の「CSR」と個人たる社員の「心持」の関係について。いきなり悪役レスラーの決め台詞というのもなんですから、まずは皆さんご存じの有名人の助けを借りて、っと。

米国のロバート・B・ライシュ先生は市場主義の行過ぎに懸念を表明されています。リターンの最大化を追求する投資家の思惑やお買い得品を探し求める消費者の意向が社会のあり方を決定づけてしまっていることに。同氏は公共的利益を追及する力を社会的に再構築すべきことを説いておられます。我々は投資家であり消費者であるが、同時に『市民』でなければならないとして。なかで次のようにも述べておられます。「暴走する資本主義」(東洋経済新報社)から引用します。

「企業というものは誠実でも不誠実でもない。この種の説明はどのようなものであっても、本質から都合よく話をそらす手であり、名声や批難といった評価を不当に与えてしまう上に、資本主義と民主主義の意味ある改革をもあやうくしている。」

フジイなりに展開させていただきます。

「地球環境問題や途上国の貧困問題は、持続可能な成長への重大な脅威である。先進国に住む我々は問題の解決に貢献する責務を負っている。」

「先進国に住む我々」の部分を「先進国の企業」と言い換えればCSRの基礎的思考になります。いずれにしても個人としてこのような考え方に賛同する人も賛同しない人もいるでしょう。ワタシは賛同します。ただ同時にワタシはリベラリスト(自由主義者)なので、賛同しようが反対しようが、個人の自由だとも考えています。「全ての人が同意すべき」とは考えません。個人の信条は自由であるべきだからです。

会社という組織を考えた場合にも、組織を構成する社員の個人的価値観は必然的に多様なはずです。「我が社の社員たるものサブサハラの貧困問題に心を痛めねばならぬ」といった「心掛け」の強要はいかがなものでしょうか。

例えば、「後発途上国の人々の悲惨な状況に我々は道義的責任を負っている。したがって××の技術開発をすべきだ」。このような理念的社内説得が実を結ぶか否か、最初のハードルは技術開発担当の重役氏が「後発途上国の現状に道義的責任を負っている」と感じるかどうかにかかっています。

こんな反論は容易に想像できますね。「アフリカの現状はアフリカの人々が責任を負うべき問題だ。歴史的にも日本はアフリカの問題に道義的責任を問われるいわれはない」。この先は堂々めぐりの議論にしかなりません。もちろん、仮に社員全員が貧困問題の解決に貢献することを望んでいるとすれば、私は、素晴らしいことだと思います。でも、もしそのために必要な投資が年間研究開発予算の3割に上るとしたらどうでしょう? 社員の誠意はそのような投資を可能にするものでしょうか。万が一(よもやそんなことは起こらないと思いますが)一人一人の「心掛け」によって使命感だけに立脚して年間研究開発予算の3割を不確かな貧困対策関係に投下する経営判断が下された場合、そのよう判断は好ましいものでしょうか。企業は企業であって慈善団体ではありません。

価値中立的なアプローチが必要です。語るべきは経営上の合理性。発展途上国における市場の将来性かもしれませんし、最貧国市場で現に利益をあげている他社に追随する必要性かもしれない。いずれにせよ、「あなたの価値観はともかくとして、これが経営戦略として最適なものだ」という説明が必要です。企業は様々な価値観を持つ個人の集合であるが故に。企業は企業であるが故に。

何度か動物実験の例を取り上げました。「誠実さ」や「愛」から出発した場合、動物実験を禁止する、もしくはお客様の健康が最重要なので動物実験を継続する、いずれの結論も導出可能です。経営判断を下すためには、将来規制が導入される可能性をどう読むか、消費者の不買運動のリスクをどう見積もるか、コンピューター・シュミレーションに移行するための費用はいかほどか等々、経営戦略の合理性という観点からアプローチすることが不可欠。

このように考えることは小生、合理的だと思うのですが、ここで注意すべきことが一つあります。それは「社訓」の存在であります。社訓はある意味社員全員が共有する価値観です。組織文化を形作る要素。小生、信条の自由と述べましたが、組織文化まで否定するつもりはありません。では、この社訓の存在と上記の議論はどのように整合的に理解できるのでしょうか。

単純に言ってしまうと大半の社訓には大枠的一般論しか書いていない、ということに尽きます。たとえば「事業を通じて世のために尽くす」とか。この内容であれば個人の信条との衝突云々の問題にはならない。でも、「アフリカの貧困に対する責任」という具体的問題にまで掘り下げられると(ここまで掘り下げないとCSRにはならないわけですが)、社としての方針を統一することは容易ではありません。そもそも「世のため」の「世」にアフリカ大陸が入ると考えている会社は希有でしょう。社訓を持ち出してCSRを語ることの一種のぎこちなさはこういったところに起因します。

小生が「CSRは専門性を要する経営技術」と申し上げた趣旨はこういうことです。CSRを「一人一人の心掛け」と捉えるということは、CSRを社訓と同一視することに近く、それ故の限界にぶつかる。CSRに関する専門的経営技術とは「誠実でも不誠実でもない」企業が社訓的な一般論を超えて社会・環境問題の改善に事業の一環として取り組むために必要なものです。この能力がないとどうなるか。結局、CSR活動は、志を共有する一部の人によるサークル活動的色彩を帯び、いずれ「箱庭化」する。箱庭を美しく撮影した報告書が出来上がる。CSRの将来はそこにあるでしょうか? 将来の社会はそのためにどれだけ良いものになるのでしょうか?

ただし、誤解してはいけません。CSR部署の人は開発や環境の理念に共鳴できなくてはいけない。それがないとはじまらない。社会を良くしたいという欲求。出発点は価値中立ではありえない。NGOや市民の声に対してCSR部が斜に構えてしまったら、その後はない。ただし、同時に、いろんな価値観を持った人間で構成されている社内に理念を理念としてナマのまま伝えるようではプロとは言えない。ビジネスの言葉(リスク、コスト、売上げ、利益、企業イメージ、従業員のやる気等)、に翻訳しなければいけない。高度な通訳。この通訳機能を持たない会社は、社会や環境の変動がもたらす新しいビジネスチャンスを素早くつかむ能力も持たないかもしれない。

っということで、小生、引き続き悪役として振舞わせていただきます。興業上のギミックじゃなくてホンマモン。怖いよ〜。ちょっと涼しくなりました?

次回は「番町CSR屋敷」でいくかな。。。

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プロフィール

1964年生まれ。経済産業研究所コンサルティングフェロー。経済産業省通商機構部参事官。著書に「ヨーロッパのCSRと日本のCSR-何が違い、何を学ぶのか」、共著に「グローバルCSR調達」がある。

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