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藤井敏彦の「CSRの本質」

企業の社会的責任(CSR)とは何なのか。欧米と日本を比較しつつ、その本質を問う。

北欧流CSRを考える(後編)

2009年2月23日

(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら

現在スカンジナビア半島上空を東京に向かって移動しております。実にテーマに相応しいですね。パリから戻って一週間後、多国間通商交渉の総本山WTO(世界貿易機関)が鎮座ましますジュネーブに出発。各国の代表団と時に厳しく、時に友好的に、またある時には曖昧に、そしてやむを得ない時は偽善的に交渉してまいりました。全ては祖国の国益のためということで。

さて、北欧CSRの続きです。ひとつ心しておくべきことがあります。海外の「○○モデル」は決してそのまま我々の社会に適用できないということです。成功を収めている外国のモデルを移植すべきだという議論は常に起こります。日本でも一昔前に「オランダモデル」とかいってあの小国の労働制度(ワークシェアリングとか)がもてはやされました。でも、オランダの「ワークシェアリング」の陰にあった病的現象(労働人口のかなりの割合が長期病欠)は伝わらなかった。

どこでも同じ現象があるわけで。ヨーロッパの中でさえそうです。しかし、フィンランドがITで経済を立て直せたからといってその成功は農業人口の多いフランスでは再現できない。大きな製造業を抱えるドイツにも。広く海外に学ぶことは常に必要です。でも、それをそのまま飲み込んでしまえば健康を損ねる結果を招きかねない。

前回、北欧ではフィランソロピーが軽蔑の対象にさえなることがあることを紹介しました。当たり前ですが、だからといって同じ姿勢を日本がとるべきであることは意味しません。社会的文脈は社会ごとに異なります。例えばアメリカでフィランソロピーを悪し様に言えば社会から抹殺されかねない。ワタシ、フィランソロピーは価値あることだと思います。ただ、CSRと区別しておかなければならない。フィランソロピーに取り組んでいることはCSRの免罪符にはならないことは理解しておく必要があるのではないかと。概念を区別することとそれぞれの概念の価値の如何は相互に独立した問題です。

という前提で北欧を引き続き考えたいと思います。今回は二つの視点を提供させてください。一つは国際性、もう一つは社会と経済の主従関係。

まず国際性です。CSR云々が取り沙汰されるずっと前から北欧の企業は深く社会に根ざしていました。ワタシが好奇心をかき立てられたことのひとつ、それは、果たして北欧諸国は「CSR」なる新規な概念を耳にしたとき、日本と同じような反応を示したのか、ということです。

すでに何度も申し上げていますが、CSRという言葉に接した時、日本は「反発」しました。終身雇用やサンポーヨシや日本的価値観が持ち出された。そして多くのエグゼキュティブは「CSRなんて日本にとっては今さらの話。我々はずっと前から社会的責任を十二分に果たしてきた」と語った。

では、北欧ではどうだったか。もし日本企業が社会的責任を果たしてきたと胸を張れるなら、北欧企業はなおさらそうだったはずです。ワタシは友人にこう聞きました。

フジイ「社会と企業が一体だとすれば北欧の企業はCSRなんて新しい概念は必要としなかったんじゃない? 反発さえあったんじゃないかな。ほら、例えばCSRヨーロッパの初期って主要な会員はみんなイギリス企業だったじゃない。アングロサクソン的な部分があったよね、CSRには。」

友人A氏「フ〜ジィサンの言うことはわかるよ。でもね、北欧はそんなふうには反応しなかった。何故か。簡単だよ。CSRにグローバルな性格を認めたから。北欧の社会で企業が社会と一体であったとしても、それは北欧の企業が発展途上国においてその国の社会と一体になっていることは必ずしも意味しない。北欧の企業はグローバルな社会課題に対して責任を有していることを自覚したんだよ、CSRの議論を通じてね。」

例えば、イケアが自らのサプライチェーンにいかに深くCSRのコンセプトを適用したかに思いを致せば、この発言は容易に理解可能です。ノキアが中国のサプライヤーにどのような姿勢で臨んだかを知れば。

日本はCSRをグローバルな視点でとらえることに失敗したと思います。今でもね。小生3年前に「グローバルCSR調達」なる本を書きましたが、小生の思いは叶わず日本企業が語る「CSR調達」の多くは依然として名目的なものだと思います。サプライヤーに「お願い」の書簡を出してお仕舞いとかね。CSRが議題になる度に大日本経済団体連盟総連合協会さんの代表が好んで語る「サンポーヨシ」。グローバルにどのように適用されているのでしょうか。世界中の様々な社会での「三方」とはなんなんでしょうか。彼らの期待に日本企業はどのように応えているのでしょうか。ワタシにはまだよくわからないのです。もちろん、小生の理解が遅いだけなのですが。I am a slow learner, sorry.

二番目の視点は企業競争力と社会の関係です。密接不可分な両者。ただ、議論の出発点をどちらに置くかによって導出される結論は異なり得ます。北欧諸国はある意味で情報技術に経済の将来を賭けたわけです。もちろん、日本でも情報技術の活用は常に強い関心の対象であり政策上のアジェンダでもある。

友人A氏はこのように語りました。

「北欧諸国がITに解を見いだしたのは、彼らの社会を今のまま維持するために何が必要かを考えた末なんだ。経済の競争力を高めることが最終的な目的ではなくて、社会を維持すること、社会の一体性を守り抜くことが目的で、そのために経済政策として何をしなければいけないか、という順序で彼らは考えたんだよ。」

日本の論理展開は反対だったように思えます。産業競争力の視点がまずあって、「今の雇用制度では世界で競争できない。世界で競争するためには柔軟に調整できる労働力が必要だ」と。「世界で競争できるように社会構造も変化させなくては。」と。

小生、どちらが正しいかを述べたいとは思いません。二者択一的な議論に特段建設的意味はない。双方のロジックは正反対でありますが、同時に両方とも間違っていない。ただ、発想のシークエンスが違う。それだけです。

参考までに。現下の世界経済危機にあって日本では過去の規制緩和が悪魔視されていますが、北欧も含めてヨーロッパを見渡してもそのような現象はありません。彼らも規制緩和は行いましたが、正規雇用と派遣労働の平等は守り通した。派遣労働であっても産休も取れる。同一労働なら賃金も同じです。正規労働と同じ社会的保護を受けている。規制緩和は社会を解体しないように実行された。そもそもCSRというコンセプト自体が「社会的一体性の維持」と「経済成長」の両立を目的として生み出されたことはこれまでも度々申し上げてきたとおりです。

もちろん北欧諸国をモデル視することは間違っている。いたずらに外国を崇めるべきではありません。現在の厳しい経済状況で北欧の企業も人員整理を余儀なくされている。彼らが今の危機の中でどのように変貌するのかはまだわからない。ただ、それでも彼らから何某か学べるかもしれません。それは何か。彼らの取り組みの国際性、「従業員=市民、家庭人」という強い前提の上になされる経営、この二つの側面は、それがどのように変化するのか、打ち捨てられるのか、それとも危機の中でも生き残るのか、も含めて関心を払う価値があるような気がするのです。

では、また来週。

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プロフィール

1964年生まれ。経済産業研究所コンサルティングフェロー。経済産業省通商機構部参事官。著書に「ヨーロッパのCSRと日本のCSR-何が違い、何を学ぶのか」、共著に「グローバルCSR調達」がある。

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