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藤井敏彦の「CSRの本質」

企業の社会的責任(CSR)とは何なのか。欧米と日本を比較しつつ、その本質を問う。

終身雇用という「物語」が終わるとき、始まるもの

2008年12月22日

(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら

も〜いくつ寝るとクリぃスマぁスぅ♪金融危機のあおりで人気のレストランも比較的予約とりやすいとか。もっとも、一貫して華やかな世界に縁遠い小生、本も出てしまったので仕方なく修行のように本を読んでいます。

そもそも読書家ではないのであれですが、ものを読むとき筋の展開や起伏っていうのとはまた別に「読後感」ってあるような気がします。「後味」とでも言うか。この季節だと、ディケンズ先生の「クリスマスキャロル」。何度読んでもほのぼの感に包まれます。

「物語」には小説のように文字でつづられたものもあるし、もっと漠然とした形で人々の間で広く共有されているものもあります。そして後者の中には、誰もが概ね肯定していて、なにがしか語ることのできる社会の共有財産的「物語」があるようにも思えます。昔の日本の山里だと「平家の落人」とか。アメリカだと「西部の開拓」とかね。ベンチャー企業なんて現代的現象も開拓精神の物語と重ねられることで強調(ないしは誇張)されるわけ。

現代日本の共有財産的「物語」のひとつが「終身雇用」じゃないでしょか。戦後の日本についての「大きな物語」であったと思います。ある意味富士山がビジュアルなシンボルだとすれば、終身雇用はストーリーとして日本を象徴してきた。企業経営に限らず、日本人の「思いやり」や「頑張り」も象徴するものとして。そして、「企業の社会的責任」って言葉を耳にした日本はこの「物語」をフルに動員したのであります。

「なにぃ。『CSRぅ』?終身雇用を誇る日本企業に欧米が『社会的責任』を説くなど片腹痛いわ、わははは」(イメージ)

小生、東京に出張してきて講演する度に「わははは」と笑い飛ばされてたわけで。被害者意識が高じてついに「終身雇用」とか「サンポーヨシ」とかを呪詛すべき敵として認識するに至ったのであります。ま、真面目な話、社会的「物語」は程度の差こそあれフィクションか過剰に美化されているか、どちらか。アメリカの「西部の開拓」だって非人道的植民活動だったとも言えるし。「終身雇用」も然り。小生、その虚構性を「ヨーロッパのCSRと日本のCSR」で執拗に追求。深い怨念を込めて(笑)。ただクリスマス前に藁人形もなんなんで結論だけ。

まず、終身雇用は「社会的責任」の発露ではなく経済合理的な選択の「結果」であった点です。

戦前に存在しなかったことからも明らかであるが終身雇用は日本文化に根ざすものではない。終身雇用は焦土から右肩上がりで成長し、人手不足が恒常的であった戦後日本経済に特殊な事情が生み出した、利潤最大化のための選択であった。欧米企業と比べ日本企業に家族主義的側面が強く見られるとしても、それは終身雇用制度による労働力囲い込みの結果であり、日本企業が家族主義的であったために終身雇用制度が採用されたのではない。

しかも、終身雇用で守られたのは一部の社員だけだったわけです。

日本企業の終身雇用制はCSRの要請にかなう一般性を備えているだろうか。終身雇用は中核的男性社員という限定された集団についてのみ成り立っていた。多くの場合、女性従業員や臨時職員はその中に含まれなかったし、下請け、系列企業の社員にも雇用の保障は与えられなかった。終身雇用制度が社会的考慮の上に設計されたものではないことの証左である。日本の伝統的終身雇用制度は女性登用の問題にも、少数派の問題にも、臨時雇用の社員に対する教育訓練の問題にも回答を出すことが出来ない。

小生がCSRに関心を持ったのは、至極単純な理由からです。欧州は若年失業問題に対処するためCSRを考案しました。日本の社会は欧州の後追いをしているから、CSRという考え方が役に立つのではないかと考えたわけです。

でも「終身雇用だから(CSRは)要らない」って。でも終身雇用を語れる企業ってまだ存在してるでしょうか。もし語るとすると条件が必要ですよね。「景気が悪くなくて、かつ、日本人の男性正社員であれば終身雇用」とかね。

今回の金融危機は「終身雇用」という日本の社会的「物語」に最終的に終止符を打ったと思います。しかもこの「物語」の読後感はあまり良くなかった。「終身雇用」が維持できなくなったことが問題なのではありません。それはある意味仕方ない。むしろ、その終わり方。もう一度恨み節(笑)

日本企業の多くは会社という閉ざされた殻の中の論理に頼って人事政策をとってきた。その結果の一つが無責任なリストラである。陰湿ないじめじみたリストラが報道されるが、終身雇用という防波堤を失った瞬間に人事政策が極端なまでの会社のエゴ丸出しとなる姿は、社会的責任という視点が人事政策にそもそもなかったことを象徴する。CSRはリストラを否定しない。求められているのはリストラが社会的に責任ある方法で実施されることである。会社の殻を通して人材が出入りすることを前提とすれば、人事政策に社会的視点は不可欠となる。社員の流動性を前提とした人事政策が求められる。従業員は社会から会社が一時的に預かっている社会的存在であるとの認識が出発的である。

「終身雇用」という物語が終わったとき、はじまるもの。それが本来のCSRなんです。「社会的に責任ある人的資本政策、Socially Responsible Human Resource Policy」としてのCSR。

CSRを語っても今はもう笑い飛ばされることはないかもしれません。でも、派遣労働者の方のデモのニュースを見るにつけ、「サンポーヨシ」の訓話に終始するCSR論に接すると悲しくなります。
「クリスマスキャロル」は当時のイギリス社会を動かしたのですが。
では、皆様、楽しいクリスマスをお過ごしください。

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プロフィール

1964年生まれ。経済産業研究所コンサルティングフェロー。経済産業省通商機構部参事官。著書に「ヨーロッパのCSRと日本のCSR-何が違い、何を学ぶのか」、共著に「グローバルCSR調達」がある。

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