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藤井敏彦の「CSRの本質」

企業の社会的責任(CSR)とは何なのか。欧米と日本を比較しつつ、その本質を問う。

金融危機は我々の未来に何を語りかけているのか

2008年11月17日

(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら

ジュネーブより帰還いたしました。得意技の時差ボケで今朝は2時にパチッと目覚め、ただ今4時であります。毎度のことながらホントダメですね。

今回7月以来のヨーロッパだったんですが、サブプライムの影響を実感しました。ジュネーブ空港で目立つ広告は「時計」と「ネスレ」と「金融機関」。土地柄ね。で、金融機関はというと、ここ公的管理に入ったな、ここは公的資金の要請したな、とかそんなんばっかり。小生がベルギーでお世話になったフォルティス銀行も巨大な広告を出していますが、事実上国営銀行です今や。こういう状況、富裕層向けの高級品はつらいかもしれませんね。スイスの腕時計大丈夫かな、なんて綺麗な広告見ながら考えていた次第です。

今回の金融危機の影響は直接、間接に誰かれなく及ぶように思います。であれば、誰もがその意味を考えてもよいかもしれませんね。ということで小生も。

現在の金融危機をどのように解釈するのか、それは取りも直さず市場経済システムを今後どのように「躾ける」か、という問いと同義ではないかと思います。

金融の本質はリスクテイクですよね。現代の金融工学はリスクを極限まで分散し間接化した。その結果、受容されるリスクの総量が飛躍的に増大し、年収がほとんど無い人が住宅ローンを借りられるようになった。そして、収入のない人々に立派な一戸建てと金融「プロフェッショナル」に何億円、何十億円という年収をもたらしたわけです。

この辻褄が合うわけがなかった現象はすべて利潤動機によって推し進められたのです。しかもすべての行為は合法であった。リスクの分散と間接化を可能にしたのは金融市場の規制緩和です。規制緩和を推し進めたグリーンスパン前連邦準備制度理事会議長は「このような事態に直面して自分は混乱している。規制当局よりも金融機関のほうが本当のリスクを理解しているはずだった」という趣旨のコメントを残すだけです。

一言で言えば、金融工学が可能にしたインベストバンカーの行為は「持続可能性」を欠いていた。

おそらく規制緩和が進められてきた過去10数年、我々は人間の「自制心」を過剰評価してきたのではないでしょうか。我々は悲しいかな「儲けたい」という欲求を我々が思っていたほど自制できないのかもしれません。いや、十分に儲けないと市場から淘汰されてしまうという(正しい)恐怖心に取りつかれてきたと言うべきかもしれない。

今回の金融危機と規制緩和によってもたらされた日本のトラック運転手さんの過酷な労働環境は基本的に同根です。前者は規制緩和が「欲望」の無批判な肯定と開放を行った結果であり、後者は社会的な監視機能(労働法制の遵守の監視機能)の強化をしないまま規制緩和が行われたため、企業のなりふり構わない違法行為を招いた。

では、将来はどうか。今回の世界的金融危機は長期的にみて二つの流れを生み出すと思います。

ひとつは規制の再評価です。規制緩和を推し進めたネオリベラリズム思考は規制を「社会的規制」と「経済的規制」に二分して、後者を否定した。しかし、金融という純粋にリスク、すなわち経済計算の分野においても、実は規制が必要であることを今回の危機が物語っています。つまり、これまでインベストバンカーが行ってきた行為の少なくとも一部は今後「違法」とされることになると思います。「社会的規制」は許されて「経済的規制」は許されないというような単純な二分法も難しくなるのではないでしょうか。過度の欲望は「社会」だけではなく「経済」も破壊するからです。

しかし、規制は万能ではありません。所詮規制という形で対処できないことは山ほどある。つまり政府のできることには限界がある。そのような分野は結局のところどうしても企業の「自制」に頼るしかない。CSRの根本です。この点、小生寂しく叫び続けてきたわけでありますが。拙著「アジアのCSRと日本のCSR」から引用します。

CSRというコンセプトが次第に形成されていくが、極めて重要なキーワードは「政府の限界」である。社会的排除の問題への処方箋を政府は描こうとして、自らの限界を思い知らされる。規制での対応は不可能であった。(中略)規制では対応できない問題への処方箋として生まれたからこそ、CSRは法令遵守とは別の概念として整理されているのである。

規制だけでは対処できない問題に企業の自主的な対応を求める必要があった、「企業の社会的責任」として。法的にはやってもいいことをあえてやらないことを求めたのです。

我々の欲望の抑制能力の欠如を補うための「規制」とそして「規制」の限界を補うための「自制」をもとめるメカニズム。後者は広い意味でのステークホルダーによるガバナンスを通じ企業の「社会的責任」に訴えることで「自制」を実現しようとする。この二つはこれから我々が市場経済メカニズムを「躾ける」うえで不可欠な要素になっていくのではないかと小生は考えています。

受容可能なリスクの総量を超えたことによって金融システムが崩壊の危機に瀕した。同じことが社会的にも、環境的にも起こりえる。飽くなき利潤の追求は金融システムにとどまらず、我々の社会やさらに地球そのものを危機に陥れるかもしれない。このことを逆から考えれば、社会的、環境的な持続可能性を追求するために生み出された「企業の社会的責任」という考え方は、より広い文脈で我々の将来の方向を指し示しているのかもしれません。

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プロフィール

1964年生まれ。経済産業研究所コンサルティングフェロー。経済産業省通商機構部参事官。著書に「ヨーロッパのCSRと日本のCSR-何が違い、何を学ぶのか」、共著に「グローバルCSR調達」がある。

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