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藤井敏彦の「CSRの本質」

企業の社会的責任(CSR)とは何なのか。欧米と日本を比較しつつ、その本質を問う。

インド・タタ自動車、ナノ工場建設のCSR的蹉跌

2008年10月14日

(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら

10月も半ば、さすがに日が短くなりましたね〜。小生、「書く」方が一段落したので、しばらくは「読む」方に秋の夜長を使いたいと思っています。充電しないと底の浅いところが露呈しちゃいますしね(笑)。

さて、10月4日の朝日新聞は次のように報じています。

世界最安値の乗用車「ナノ」の10月発売を予定していたインドのタタ・モーターズは3日、生産場所に予定していた西ベンガル州での工場建設をやめると発表した。土地収用への農民や州野党の反対が強いため。ナノの発売時期や販売見通しは大幅な変更を迫られる。

タタ自動車がナノの工場建設で地元と軋轢を起こしていることはこれまでも世界中で報道されてきました。結局、タタ自動車は予定地への工場建設を断念。その後、別の場所への工場建設を発表しましたが、当初の予定地の工場建設に投じた375億円に上る投資の相当部分をフイにしたと思われます。

今回の一件がひろく世界のメディアの関心をあつめたのは、ひとつには、業界の風雲児タタ自動車にまつわるものであったことです。同社は2008年にフォードから「ジャガー」、「ランド・ローバー」ブランドを総額23億ドルで買収したことで一躍時代の寵児となりました。都心を疾走する「ジャガー」達の親御さんはインドのムンバイにいらっしゃるのです。イギリスの伝統的自動車ブランドをイギリスの旧植民地の自動車会社が買収する、という構図は様々に論評されました。昨今ヨーロッパでは中国などの新興国の経済パワーを「逆植民地化」なんて言葉で表現するヒトもいますから。さらに、もうひとつの理由は、一台25万円という破格の値段で新興自動車市場の台風の目となる可能性がある「ナノ」用の工場だったことです。

ただ、本件、加えてCSRの観点からも光を当てておいたほうがよいと思います。教訓を引き出しておくべきかと。

関連するのが「ソーシャル・ライセンス(Social License to Operate)」の視点です。「ソーシャル・ライセンス」について、三井物産戦略研究所の新谷さんは次のように説明しています。

企業は本業活動において、様々な場面で社会と向き合っている。たとえば、鉱山開発を行うメーカーはその開発を行う際に、開発地域への社会貢献などの投資を同時に行うことがある。これはソーシャル・ライセンスと呼ばれ、開発に伴って生じる環境負荷の軽減や鉱山労働者の確保とその福利厚生のため、開発を行うためのライセンスとして当然に企業が社会から要請されており、企業が地域社会とのコミュニケーションの一環として行うものである。
(出所)http://www.nikkei.co.jp/csr/think/think_key.html

今回の工場建設断念は、タタ自動車が地元社会から「ソーシャル・ライセンス」を取得することに失敗したことを意味します。工場建設計画策定に先立つ地域社会との対話の不足が主因だと思われますが、ここで考えるべきことは、自動車工場建設は一般に最も「ソーシャル・ライセンス」の取得が容易な部類に入るということです。

ソーシャル・ライセンスが語られるのは、環境、社会上の外部不経済が大きい鉱山開発が典型です。化学プラントなどもソーシャル・ライセンスの獲得のために地元との対話に慎重さを要すると思います。ただ、自動車の生産は基本的に組み立てです。環境負荷が大きいわけではありません。反対に、雇用規模は大きく、地域への経済的な波及効果は関連部品企業の進出などを含めて大いに期待できます。よって、自動車工場の進出は歓迎されることはあっても忌避されることはない、というのが一般的な常識ではないでしょうか。

そのような「常識」が今回は通用しなかった。ソーシャル・ライセンスの考え方は鉱業等一部の限られた産業の関係者が知っていればよいものではないことがわかります。今後、多くの産業で新興国への工場進出が増えるでしょう。プロジェクト遂行に当たっては、業種を問わず、伝統的農村の価値観やそのような社会で人々が求める経済的自立や安定の姿とはどういうものなのか、など様々な問題を考慮する必要があると思います。

もうひとつ、今回の事案がCSRの観点から注目されるのが、インドを代表するタタ・グループの企業が経験した蹉跌であったということです。「インドのCSR=タタのCSR」というくらい、同国でタタ・グループのCSRへの取り組みは際だっています。

ブラッセル時代、インド系イギリス人のCSR研究者の友人が「タタのCSRは素晴らしい!タタを見れば、CSRという考え方が先進国企業に限られたものではないことがわかるよ。是非一緒に見に行こう。」と何度も誘ってくれました。結局、インド行きはなりませんでしたが、当時からタタ・グループのCSR報告書は話題になることが多かったです。実は今月末に出す本は「アジアのCSRと日本のCSR」と題して、さきほど名前をあげた新谷さんと二人で書いています。アジア通の新谷さんがタタ・グループのCSRも詳しくとりあげています。乞う、御期待。

しかし、インドの社会に精通しCSRに先駆けて取り組んできたタタ・グループでさえこのような困難に直面したという事実は、これからインドに出て行く日本企業に警鐘を鳴らすものではないでしょうか。実際、韓国の鉄鋼メーカー、ポスコもインドでの製鉄所の建設に当たって地元社会の反対運動に直面しています。

BRICSなど新興国が注目を集めています。そのような市場での成功の如何が企業の命運を握るかもしれない。しかし、新興国の社会では日本企業の過去の経験値としての「常識」が通用するかどうかは定かではありません。慎重なリスク・マネジメントをしなければ進出計画が無謀なギャンブルになってしまうかもしれない。真の意味で地元のステークホルダーの声に謙虚に耳を傾けるCSRが求められていくと思います。

とりわけ将来インドへの工場進出をお考えの企業の関係者の方、今回のタタ自動車の経緯、調べておく価値があると思いますよ。

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プロフィール

1964年生まれ。経済産業研究所コンサルティングフェロー。経済産業省通商機構部参事官。著書に「ヨーロッパのCSRと日本のCSR-何が違い、何を学ぶのか」、共著に「グローバルCSR調達」がある。

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