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藤井敏彦の「CSRの本質」

企業の社会的責任(CSR)とは何なのか。欧米と日本を比較しつつ、その本質を問う。

「企業の公共政策」としてのCSR

2007年12月24日

 年の瀬は慌ただしいのが世の習い。ワタシも回っている脱水機に放り込まれたような毎日。一年を振り返るいとまもありません。読者の皆様はいかがお過ごしでしょうか。

 さて、先週はヨーロッパの若年失業、そしてそれに起因する社会不安について取り上げました。CSRという概念が持ち出された根っ子のところにそういった問題があったのです。しかし、依然として、いわゆる「社会的排除」と「企業の社会的責任」の間には距離があると感じられるのではないでしょうか。今回は両者の関係を述べたいと思います。

 ヨーロッパの各国政府は当然のことながら若年失業の問題をなんとか解決しようと試みます。様々な対策が練られますが、中でも大きな柱であったのが、単純化して言えば、中高年の仕事を若者に振り向けることでした。すなわち、中高年層の早期退職を促進することです。年金等様々な面で早期退職に対する優遇策が用意されました。

 仕事が生き甲斐という人はどこの社会にも少なからずおられます。でも、比率は社会によって差があるような気がします。あくまで感覚的なのですが、日本では仕事に生き甲斐を見いだしている人の比率がヨーロッパよりも高いように感じます。もちろん、ヨーロッパを一括りにするのも随分荒っぽい議論で、例えば、南欧と北欧では労働に対する価値観は同じではありませんが。ま、いずれにせよ、政府の思い切った施策の結果何が起こったか。ヨーロッパでは多くの人が優遇策を歓迎して退職していきました。退職とは肯定的なものなのですね。年のうち数ヶ月を南仏で過ごすとか、そんな生活ができるようになった人もいたでしょう。結果として政策の中間的目標である中高年の離職促進は見事に達成されます。

 他方、政策の究極的目標は達成されませんでした。中高年が離職することで「空いた」ポストが失業している若者に提供されるとはあまりありませんでした。「空いた」ポストは、折からの不況の中で単に消滅するか、または製造ラインの職であれば人件費の安い東欧やアジアに移されたりしたのです。

 さあ、政府は大ピンチ。読み間違えで事態は悪化したのです。退職促進のために大盤振る舞いをして財政的負担を背負い込んだのに、かえって労働市場への参加率を低下させて経済のパイを縮小させてしまった。社会的には「バカンス三昧の退職者」と「明日の不安に苛まれる若者失業者」という世代間の分裂現象が起こります。この後、各国政府は政策を180度転換させることを余技なくされ、労働市場への参加率を引き上げようと躍起になることになります。

 このような文脈の中でCSRというコンセプトが次第に語られていくわけですが、極めて重要なキーワードは「政府の限界」です。社会的排除の問題への処方箋を政府は描こうとして、自らの限界を思い知らされます。規制で対応すればいいって?でも考えてみればまさか若者の雇用を義務づける規制なんて、共産主義体制でもなければ出来るわけないわけです。政府の手持ちのカードでは問題を解決できないことが次第に明瞭になっていきます。

 そこで、政府が問題解決のために企業に協力を求めます。この点も重要です。政府が企業に協力を求めたのです。企業から政府に協力を申し出たのではありません。

 政府の協力要請に対するヨーロッパの産業界の回答が1995年に出された「社会的疎外に反対するビジネスのヨーロッパ宣言(European declaration of businesses against social exclusion)」 です。この宣言が後に設立されるCSRヨーロッパというヨーロッパのCSRの中心的推進団体の基礎になります。もし興味をもたれたら、この宣言を読んでみてください。CSRに関する考え方が大きく変わるかもしれません。

 そこには例えばこんなことが書いてあります。
—社員の採用にあたり、長期失業者への偏見及び若年者、技能の低い者、身体障害者など就職に苦労している応募者への偏見は排除されるべきだ。
—高い技能や豊富な経験を持つ者ばかりを採用することは避けるべきだ。そのような採用は技能の低い者を罰することと等しい。
—雇用契約に仕事の成果と報酬の関係を明記すべきだ。パートタイムを希望する者にも公平な処遇がなされるべきだ。

 さあ、どうでしょう。愛される企業、コンプライアンスといった言い回しはCSRを適切に表現しえているでしょうか。ここに書いてあることがいかにビジネスの常識にとって挑戦的であるか。だって、要すれば技能の低い者を採用せよって言っているんですよ。長期失業の若者の問題を解決するためには、この「非常識」な対応が求められたのです。明らかに企業の短期的利益と衝突します。アメリカ企業は「ベストアンドブライテスト」の人材を集め、利益を極大化し、そしてその一部を社会貢献にまわします。でも、ヨーロッパのCSRはちがうのです。社会的排除の問題を軽減するために利益を犠牲にして能力の劣る人間を雇おうという、そういう運動だったのです。CSRとはそれほど革新的な形で登場した概念なのです。

 読者の皆様、今年を締めくくるに当たり、CSRとは公共政策の領域で生まれた概念なのだということを申し上げたいと思います。公共政策について政府と企業が役割分担をすること、それがCSRの出発点です。公共政策である以上一定の限定された目的に奉仕するものです。CSRとは「企業の公共政策」と言い換えが可能だとワタシは思っています。
 では皆様良いお年をお迎えください。

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プロフィール

1964年生まれ。経済産業研究所コンサルティングフェロー。経済産業省通商機構部参事官。著書に「ヨーロッパのCSRと日本のCSR-何が違い、何を学ぶのか」、共著に「グローバルCSR調達」がある。

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