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高森郁哉の「ArtとTechの明日が見たい」

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『ノウイング』:「地球消滅」の預言、その真意は

2009年6月15日

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(c) 2009 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved.

[注:後半からネタバレを含みます。観る可能性のある方は、鑑賞後に読んでいただくほうがよいかもしれません。]

MITで宇宙物理学を教えるジョン・ケストラー(ニコラス・ケイジ)は、息子ケイレブ(チャンドラー・カンタベリー)が小学校の行事で渡された一面数字だらけの紙に、重大なメッセージが記されていることに気づく。その紙は50年前にタイムカプセルに収められたものだが、数列はそれ以降に起きる世界中の大惨事の日付、犠牲者数、位置情報を正確に言い当てていた。まだ起きていない大惨事の予言は3つ。だがジョンの目の前で、航空機の墜落事故、地下鉄の脱線事故が相次いで発生する。そして最後の数列は、太陽のスーパーフレアによって地球が焼き尽くされ、人類が滅亡することを予告するものだとわかる。また時を同じくして、ケイレブの周辺に不審な黒服の男たちが出没するようになる。息子を、そして世界を救う手だてを求めてジョンは奔走するが――。

圧巻の大惨事シーン

『ダークシティ』『アイ,ロボット』のアレックス・プロヤスが監督と共同脚本を務めた本作。紙一面の暗号と少年という絵に既視感があると思ったら、『マーキュリー・ライジング』の原作小説を書いたライン・ダグラス・ピアソンが脚本に加わっていた。

何よりまず、視覚効果を駆使して大惨事を描く2つのシーンに圧倒される。低空から航空機が傾いたまま眼前の地面に激突して大破・炎上し、分断された胴体から火だるまの乗客たちがはい出し、駆け寄ったジョンが懸命に救助する、そうした一連の流れが長回しのワンカットで収められている。1台のカメラからの視点で事故現場を見ることで、あたかも自分がその場に居合わせたかのような緊迫した臨場感を覚えるのだ。実際、この長回しが終わって画面がブラックアウトした1秒ほどの間に、試写室のあちこちから重苦しいため息がもれるのが聞こえた。みんな息を詰めて見入っていたのだろう。

対照的に地下鉄事故のシーンでは、細かくカットを割ることにより、脱線してホームに突入してきた電車の正面に人がぶつかる瞬間を不意に見せて、ショッキングで痛々しいシークエンスを組み立てている。事故後に避難してきた被害者たちが出口周辺の路上にあふれるシーンも、なにやら既視感を覚える。

これら2つのシーンが過去のディザスター映画より生々しく感じられ、心を揺さぶられるのは、おそらくこの十数年でたびたび報道番組で見てきた同時テロ発生現場の映像の記憶を呼び覚ますからだろう。航空機事故はもちろん9.11につながるし、地下鉄駅の惨事(と路上の被害者たち)は日本人ならサリン事件、欧米の観客ならロンドン同時爆破事件やスペイン列車爆破事件を思い浮かべるのではないか。これらの映像を繰り返し見たせいで、圧倒的に大きな暴力により人の生が唐突に強制終了させられることへの恐怖が、先進諸国に暮らす人々にとっていわば“集合的トラウマ”のようになっているとすれば、プロヤス監督はこのトラウマを意図的に刺激しているのかもしれない。

そして、最後の大惨事に関しては、従来のディザスター映画の定型に当てはまらない、ある意味禁じ手とも言えるオチを繰り出してきた。過去にマイナーな作品では例があったかもしれないが、ハリウッドの大作映画でこういった結末が提示されたのは正直意外だった(ネタバレになるので詳しくは次項に譲る)。プロヤス監督がギリシャ系エジプト人の両親のもとでエジプトに生まれ、2歳で移住したオーストラリアを現在も活動拠点にしているというバックグラウンドが、型にはまらないストーリーテリングに関係しているのかもしれない。

結末をめぐって(注意:以降ネタバレあり)

日本での宣伝コピーは、「7月、地球消滅」。この手の前振りでは大げさに煽るのが定番で、最近の例では『地球が静止する日』だってタイトルに反して静止しないし、今回もどうせフカシだろうと思ったら大間違い。実はこのコピーが究極のネタバレで、本当に地球は最後に消滅してしまうのだ。まあ予告編でもある程度予想がついてしまうことだし、表面的な話の筋を知ったところで真の価値が損なわれない、寓意に満ちた作品なので、この宣伝もじゅうぶんアリだと思う。

物語の終盤、ジョンの必死の努力もむなしく、太陽フレアによる大惨事は防げないことがわかる。不審な男たちは実はエイリアンで、50年前に少女を通じて、「決定された歴史的大惨事」を通達していたのだった。彼らの声を聞く能力を持つケイレブと、もう一人の少女アビー(ララ・ロビンソン)だけが、エイリアンたちと共に地球を離れることを許される。彼らが宇宙船で飛び立ったあと、ジョンは長年仲違いしていた両親の家を訪れ、妹を含めた4人で抱き合う。次の瞬間、太陽フレアの灼熱の炎がたちまち地球上を焼き尽くす。

最後のシーンで、ケイレブとアビーが黄金色の草原を無邪気な笑顔で駆けていく。地球によく似た環境の惑星らしい。遠くの空に宇宙船が飛び立っていく――。

予想される批判

先に書いたディザスター映画の定型とは主に2つあって、1つは、迫り来る地球的規模の脅威を、主人公らが英雄的な活躍で未然に防ぐというハッピーエンド。もう1つは、深刻な大惨事で人類が滅亡の危機に瀕するが、生き残ったわずかな人々が力を合わせて再出発し、未来への希望を示して終わるというもの。こうした定型に慣れ、つい『ノウイング』にも似たような解決を期待してしまった人は、一見バッドエンドに思えるオチに腹を立てるかもしれない。

それに、もし世界が決定論に支配され、どんなに努力しても地球消滅を防げないのだとしたら、そもそも宇宙人が50年分の惨事を通告する意味がないではないか、プロット上の欠陥ではないか、という非難も出てきそうだ。

そのうえ、ノアの箱舟の話のように救われた2人の子供が新しい人類の始まりとなることを示したエンディングにも、どこか不穏な空気が漂う。親と死に別れ、地球が消滅してしまったというのに、過去の出来事をすべて忘れたかのように無邪気に笑っている2人。ケイレブとアビー(Caleb & Abby)という名前が、カインとアベル(Cain & Abel)のおおよそのアナグラムになっていることから、「エデンの園」の第2幕と同じようにこの惑星で文明を築く人間たちもやがて嘘をつき、人を殺す罪を繰り返すであろうことが予想される。こうした皮肉めいた聖書の引用を不愉快に思う人もいるだろう。

真のメッセージに耳を澄ませる

だが、「世界の出来事は決定論で支配されている」というトンデモ説や、「地球滅亡に備えて人類を他の惑星に送り込もう」といった非現実的な主張が、映画のテーマではもちろんない。作品に込められたメッセージを解く鍵はおそらく2つあり、その1つは主人公ジョンの人間的な変化だ。

序盤でのジョンは、大学の仕事のせいで息子の小学校の行事に遅刻したり、下校時間に車で迎えに行く約束を忘れかけたりしている。寝る前の「2人はいつも一緒」という手話を交えた合い言葉も、ケイレブに無理に言わせている雰囲気。親と仲直りするよう諭す妹に対しても、気遣う言葉のひとつもかけてやれない。妻を事故で失って以来自分の殻に閉じこもり、身近な人との間にもきちんとした関係を築けなくなっているのだ。

ところが中盤以降、2つの事故に遭遇し、さらに地球規模の惨事を予期するなか、いつしか自分の息子を第一に考え、命懸けで守るようになっている。地球の運命を知ったときは、自分のもとにケイレブをとどめるのではなく、エイリアンに託すことを苦しみながら選択する。ここに至ってジョンとケイレブは深く心を通わせ、「2人はいつも一緒」は初めて息子から発せられる。そして最後に、ジョンは先延ばしにしていた両親との和解を果たす。

もう1つの鍵、「黒い石」

表面上は、エイリアンは聖書で語られる神、または神の使者に近い存在のようにみえる。予め決定された歴史を知っていて、彼らの声を聴く子供たちを新天地へ連れて行く力があるからだ。すると、エイリアンが渡す黒い石は、「われわれは君を見ている、君の行いを知っている」という印と考えられる。

でも、そこからさらに一歩進めて、こんな風に考えた。黒い石は、単にエイリアンが見ていることの印だけではなく、「観客である私たちも同時にその場面を目撃している」ということを意識させるための合図、作り手からの目配せではないか。アビーの母親ダイアナ(ローズ・バーン)は、連れ去られた子供たちを懸命に追う途中、事故で重傷を負い、死ぬ間際に黒い石を手にする。一見無駄死にのようにも思えるが、彼女が危険を顧みず娘を救おうとしたことを私たちは知っている。だからこそ、アビーがエイリアンから「母が安全なところにいる」と聞いたとき、ダイアナは安らかな心で天に召されたのだろうと私たちは想像できるのだ。

ここまで考えると、エイリアンはキリスト教や特定の宗教の神ではなく、内なる心の神=精神(spirit)のメタファーではないかと思えてくる。ほかの誰にも知られていなくても、自分の行いは自分自身がいつも見ていて、すべて知っている。そして、エイリアンが予告する人類滅亡とは、本当は誰もが知っている(そして普段は意識しないようにしている)、「すべての人間はいつか必ず死ぬ」という回避できない真理のメタファーだろう。

これらの解釈から導かれるメッセージは、トンデモどころか極めて真っ当でストレートなものだ。つまり「人はいつか必ず死ぬのだから、たとえ世界の終わりが明日来ても後悔しないよう今日を真摯に生きるべきであり、自分の行いはほかでもない自分自身が知っている」ということだ。『ノウイング』は、悪夢のような大惨事シーンとサスペンスに満ちた展開の間に、シンプルな哲学をさりげなく埋め込んでいる。

製作年の近さから考えれば偶然だと思うが、やはりニコラス・ケイジ主演の『NEXT -ネクスト-』(リー・タマホリ監督、2007年)のラスト近くでも、ケイジ扮する予知能力者が大爆発の炎に包まれるシーンがある。だがそれは予知夢のようなもので、ぱっと目を開けると爆発の起きる数日前であり、彼は行動を変えることで違う結末にできる。『ノウイング』の上映が終わって大惨事の夢から覚めるのはもちろん私たち観客で、やはり私たちも自分の行い次第で人生を変えることができるのだ。


[公開情報]
『ノウイング』 原題:KNOWING
2009年7月10日(金)日本公開
監督:アレックス・プロヤス
出演:ニコラス・ケイジ、チャンドラー・カンタベリー、ローズ・バーンほか
共同提供:東宝東和/ポニーキャニオン
配給:東宝東和
公式サイト:http://knowing.jp/

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プロフィール

フリーランスのライター、翻訳者としての活動を経て、2010年3月、ウェブ・メディア・地域事業を手がける(株)コメディアの代表取締役に。多摩地域情報サイト「たまプレ!」編集長。ウェブ媒体などへの寄稿も映画評を中心に継続している。

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