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高森郁哉の「ArtとTechの明日が見たい」

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映画『ブロークン』:カプグラ症候群、内臓逆位、鏡像の恐怖…

2008年11月10日

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(c) 2008 LEFT TURN FILMS/THE BROKEN FILMS ALL RIGHTS RESERVED.

[あらすじ]

ロンドンに暮らすX線技師のジーナ。ある日職場で患者のX線写真を見て、胸部の右側に心臓がある「内臓逆位」だと指摘する。そこに恋人のステファンから電話。その夜ジーナの父親の誕生日を祝う家族の集まりについて話をする。

夜、父親の自宅にジーナと恋人、弟のダニエルとその恋人ケイトが揃い、ダイニングルームで歓談していると、唐突に大鏡が激しく割れ落ちる。5人は一瞬あぜんとするが、すぐに楽しい雰囲気を取り戻し、「鏡を割ると7年の不運」という迷信を冗談交じりに口にしながら鏡の破片を片付ける。

翌日、ジーナは職場からの帰り道に、自分と同じ赤いチェロキーを運転する「自分そっくりな他人」を目撃する。その車の後をつけて、彼女のアパートに侵入すると、彼女は自分とまるっきり同じ部屋に暮らしていた……。

混乱した状態で車を運転したジーナは、バックミラーに映る自分の顔に気を取られて、交通事故を起こしてしまう。幸運にも大した外傷はなかったが、後遺症として事故前後の記憶を一部なくしてしまった。

やはり事故の影響か、ジーナは恋人をなぜか別人に感じるようになる。そのことをカウンセラーに告白すると、「カプグラ症候群」という病名を聞かされる。親しい知人を別人に感じ、家族や恋人が替え玉に置き換わっていると信じ込むもので、頭部外傷などが原因だという……。

映画『ブロークン』は、ファッション・フォトグラファー出身で、『フローズン・タイム』(2005年)で長編映画デビューを果たしたショーン・エリス監督による第2作。前作で見せたストップモーションやスローモーションなど、写真家らしい映像へのこだわりは今回も健在で、事故のカットがスローで繰り返し挿入されたり、シンメトリーを強調した構図が多用されています。

ただし、前作が画家志望の主人公の恋と日常を比較的淡々と(コミカルとエッチの要素も少し添えて)描いたドラマだったのに対し、『ブロークン』は一転、ヒッチコックの『めまい』『サイコ』を意識したサスペンス・ホラーに挑戦。ハリウッド映画のような派手さはないけれど、言葉の説明を控えめにし映像に意味を込めてストーリーを紡いでゆく作風を早くも確立したように感じられます。

この手の映画はなるべく筋を知らずに観た方が楽しめるので、『フローズン・タイム』の映像表現が好きだった人や、マイルドなホラー(残酷描写はなし)を好んで観る人、超自然的な要素や異界の存在が出てきても興ざめしない人なら、あまり予備知識を仕入れずに劇場に行くなりDVDで観るのがおすすめ。もし予告編を未見なら、それさえも見ない方がいいとアドバイスしておきます。本編中でも特に衝撃的なカットが2つほど予告編に使われているので、先に見てしまうと本編鑑賞時の驚きが半減してしまうから。映画を宣伝する側にしたら、なるべくインパクトのある映像を予告編で見せて興味を喚起したいし、ネタバレはできないしで、さじ加減の難しいところだとは思いますが。

レビューを書く側にも似たような葛藤があって、巧妙に埋め込まれた仕掛けや異なる解釈が可能な要素などを挙げて映画の面白さを伝えたいけれど、予備知識を提供して本編を観たときの驚きをスポイルするのは避けたいし……。

そこで今回は、前半でネタバレにつながらないキーワードについて紹介し、ページを改めて若干ネタバレを含む考察を書くという構成にします。

内臓逆位

耳慣れない言葉ではあれど、字面を見ると想像がつくように、内臓逆位とは「内臓の配置が鏡に映したようにすべて左右反対になる症状」のこと(参考)。たとえば心臓は胸部の右側に位置します。発生初期の胚の段階における繊毛の異常(動かない、または存在しない)が関係しているとされ、珍しい先天性の異常のようです。

ここでは、鏡像のように左右が反転しているというのがミソ。内臓逆位のX線写真は映画で2度出てきますが、冒頭と2回目では意味合いが異なっています。

カプグラ症候群

初めて知ったこの用語。映画ではカウンセラーの台詞で、「親しい知人を別人に感じ、家族や恋人が替え玉に置き換わっていると信じ込む」、また別の医師の台詞で「1923年から100症例が確認され、過去10年で80症例」と説明されます。

また、『自我が揺らぐとき――脳はいかにして自己を創りだすのか――』(トッド・E・ファインバーグ著、吉田利子訳、岩波書店刊)にもカプグラ症候群や、それに関連する症状についての記述があります。特に『ブロークン』とかかわりのある部分を3ヵ所ほど抜き出してみましょう。

(「カプグラ症候群」より)  カプグラ症候群は「妄想性人物誤認症候群」のひとつである。(中略)カプグラ症候群の患者は、替え玉が本来の誰かにそっくりであることは認めるが、しかし対象者の心理的なアイデンティティは変化してしまっている。  カプグラ症候群は、精神的な病気が原因かもしれないし、神経学的な病気が原因かもしれない。(中略)  替え玉だと言われるのは近親者か、患者の人生にとって重要な意味を持つ人物だ。
(「鏡像誤認」より) わたしが診た患者二人は非常に混乱し、鏡を見たときに不可思議な行動を取った。鏡に映る像は、当人たちにはまるで自分とは違っていた。(中略)

 スーザンは六十代で、五歳のときに聴力を失ったが、読唇術ができたし、手話で意思疎通することもできた。視覚検査をしたところ、彼女には右脳の機能不全の兆候が現れていた。MRIで確認してみると、右側頭頭頂部萎縮が見られた。
 しばらく前からスーザンは寝室の鏡に向かって、手話で語りかけるようになっていた。(中略)姿も年齢も境遇、教養なども自分にそっくりの、もう一人のスーザンがいると彼女は信じていた。もう一人のスーザンはいつも鏡の中にいた。(中略)

 第三章でご紹介したカプグラ症候群と同じように、スーザンにも相貌失認はなかった。(中略)スーザンは家族や医師、隣人たちについては正確に認識できた。鏡に映る自分以外は誤認したことがない。(中略)
 スーザンの状態は、自らの鏡像を対象としたカプグラ症候群である。


(「自己像幻視」より)
自己像幻視(鏡映幻覚とも言われる)は外界に自己を投影した幻覚である。(中略)分身という考え方に魅入られたドストエフスキーは癲癇だが、自己像幻視もあったかもしれない。癲癇は自己像幻視をともなうことのある病気のひとつだからである。(中略)

 自己像幻視の原因となり得る医学的、神経学的、精神科的な状態にはさまざまなものがある。癲癇や偏頭痛のほかにも、さまざまな脳炎、アルコール依存症、薬物中毒、脳腫瘍、脳内出血などがあげられる。

エリス監督は、カプグラ症候群を文字通りキーワードとして映画の中に取り込んでいますが、おそらく上に挙げた「鏡像誤認」や「自己像幻視」(ドッペルゲンガー)のような類似性のある症状についても考慮し、プロットに活用したはず。こうした分野に興味のある人なら、『ブロークン』を一層面白く鑑賞できると思います。

いやはや、ちょっと引用が長くなりすぎて恐縮です。続きはページを改めますが、先述の通りネタバレを含むので、映画を未見の方はくれぐれも注意してください。

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『ブロークン』
11月15日(土)よりテアトルタイムズスクエアにて全国ロードショー
監督:ショーン・エリス
製作総指揮:
出演:レナ・ヘディ、リチャード・ジェンキンス、ミシェル・ダンカンほか
2008年/イギリス・フランス/原題 The Brøken
配給・宣伝:リベロ
公式サイト:(注:自動的に予告編が再生されます)http://www.broken-movie.jp/
公開劇場情報だけを知りたいという方はこちら

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プロフィール

フリーランスのライター、翻訳者としての活動を経て、2010年3月、ウェブ・メディア・地域事業を手がける(株)コメディアの代表取締役に。多摩地域情報サイト「たまプレ!」編集長。ウェブ媒体などへの寄稿も映画評を中心に継続している。

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