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白田秀彰の「網言録」

情報法のエキスパートが、日常生活から国家論まで「そもそも論」を展開し、これからどう生き抜くべきかを語る。

第三回 美と規範 I

2007年5月30日

前回、私のようなオヤジが学生達に説教できなくなってる、という話を書いた。今回はその原因について思うところを書き、その結果どのようなことが生じるかについて考えてみる。

そこで唐突ながら、私が非常勤講師として通っている美術大学について述べたい。もとより私は専門的な美術教育を受けたことがないわけだから、美大で行われている教育や研究について語る資格はないのだろう。しかしながら、美が万人のものであるのなら、それについて素人感想を述べるくらいは赦していただきたい。

私が講師をしているのは武蔵野美術大学・「デザイン情報学科」(以下「デ情」)なる部局だ。美大の内容を二つに分けるなら純粋美術(fine art)系と、デザイン系ということになり、デザイン情報学科は後者に属する。その目的は、第一にさまざまな「情報の形」をデザインという観点で再編すること、第二に感性に頼りがちな「デザイン活動」を情報科学的視点から分析し、理由のあるデザインを作ろうとするものだと、私は理解している。

自分が勤めているから誉めるわけではないが、学生が提案するデザインについて「なぜ?」「どうしてこうなるの?」という理由を問いつづけ、調査分析に基づいた思考を突き詰めさせようとするデ情の教育方針は、まるで社会科学系の大学のようだ。そうした教育の結果として、美大生ならではの感性や表現能力と社会科学的な分析や考察が結合した諸作品には、表現・内容ともに充実したものが多く見られる。美的感性や表現能力に欠けるところの大きい純粋社会科学系の学生が彼らに伍するなら、よりいっそうの調査・分析・考察の充実を図らねばならないはずだが、その努力は一般的にみて不足していると言わざるを得ない。

このように、ひとしきり自分の関係している部局を誉めて安全圏を作った上で(笑)、純粋美術系で何が起きているのか見てみよう。純粋美術系を大きく分けると日本画、洋画、彫塑、彫刻に分類されるのだと思う。それらの領域にはそれぞれ長い伝統があり、私達は、美術館や美術書等でそうした古典的・伝統的な作品や近代的な作品に触れている。もちろん、それらの領域にはそれぞれ「現代〜」という語を冠すべき新しい諸作品が存在し、それらもまた新しい美の領域を拡張している(のだろう)。

  *  *  *  *  *

私達は、現代人の目を通して過去の古典作品を見るので、それら古典作品に慣れてしまっている。それゆえ、古典作品が数多くの驚異に満ちていることを見過ごしがちだ。私達が古典的な西洋絵画を見るとき、立てたキャンバスに油絵具を塗り込めていく芸術家の姿が目に浮かぶだろう。ある作品については、精確な遠近法や、精緻な筆遣いに圧倒され、その迫真的な表現につい「まるで写真のようだ!」という誉めているのか貶しているのかわからない感想を抱いたりする。あるいは、私達が古典彫刻を見るとき、真っ白な大理石の塊から刻みだされた均整ある美しい肉体表現をみて感嘆しつつも、その肉体の均整があまりにも完璧であるが故に、その表現が「自然なものだ」と勘違いしたりしてしまったりする。

古典絵画は、写真機の登場で「視覚的現実を写し記録する」という特権的地位を奪われた。それゆえ近代絵画は、それまでの写実とは別の芸術表現を目指すことになった...というのは、よく知られた西洋絵画史における一大転換の説明だ。写実的な彫刻もまた同じような問題に直面して、それを克服し現代彫刻へと展開したのだろう。そこにおいては、古典作品が目指したような「普遍的あるいは客観的自然を描く」という方向ではなく、ある芸術家の世界認識や感性を通してみた「それぞれの世界を描く」という方向に向いた。もちろん、古典作品においても芸術家の認識や感性が排除しえなく表現されていたし、近代作品においても、客観的自然を描くこと自体の価値は依然として存在しつづけた。

しかしながら、近代作品が「芸術家個人ならではのもの」すなわち個性を指向した結果、全ての芸術家がそれを是としたのではないだろうが、意識的な表現技法の差別化が指向されたことも否定できないだろう。19世紀半ばから20世紀の画家が、個人としてあるいは集団として、さまざまな表現技法や画風を試みたことは、そのあたりの時代の画家の画集でも眺めてみればわかっていただけるはず。そうした活動が、眼の水晶体を通して網膜に結ぶ像を「現実である」と信じ込んでいる我々に、画家の脳内に展開する様々な「ありうる世界」とその美しさを再認識させてくれたということは、それはそれとして大いに評価されてしかるべきだ。

上記のような歴史を背景として ──私が美術大学の卒業制作展を見る限り── 純粋美術系の学生達の作品は、ほとんどが現代的作品によって占められる。日本画の学生作品においていくらか古典的な花鳥風月をテーマにしたものも見られたりするが、ほとんどの作品は、普遍的客観的自然がテーマではなく、学生ならではの個性を探求しそれを(たぶん)全力で表現したものとなっている。もちろん、彼らの個性と感性に驚かされ感動させられるところもあるのだが、私が数年間そうした卒業制作展をみていると、「画一化した写実表現あるいはアカデミックな作品」を否定し、個性を探求したはずのそれら諸作品が、ある種のパターンなり時代性なりに見事に囚われていることにも、私は気がつくのだ。

数年前に見た抽象絵画に良く似た印象を与える今年の絵画、どこかで見たような木を積み上げた現代彫刻。もちろん、作品それぞれの個性を感得し得ない私の感性の鈍感さを批判する方もいると思う。しかし、私の感性が素人の平均的なものだとするならば、おそらくそれらの作品は、素人にとっては凡庸で画一的に把握されるだろうと思う。

ある年の卒業制作展で、抽象的かつデザインに近い印象を与える洋画を展示していた学生に尋ねたことがある。

「ルネサンス期のイタリア絵画のような、新古典主義のフランス絵画のような、写実指向の絵を描くように指示されたら、君たち洋画科の学生は描けるものなの?」

「いいえ。おそらく無理です。」

私は俗物なので、ルネサンス風の、あるいは新古典主義の、さらにはラファエル前派のような「わかりやすい、キレイな絵」が好きだ。だから、そうした絵が描ける学生が現れたら、テーマを示して絵を注文なんかしたりしたいものだ、と思ったりしていた。しかし、いまだにそうした学生には出逢っていない。ナントカ風に分類されうるような絵画は個性的ではないからだろう。では、今では誰が優れた古典的絵画を描いているのだろうか。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書に『コピーライトの史的展開』、Hotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』がある。HPは、こちら

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