イノベーションが生まれる論理
2007年12月17日
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■ヒッペル教授の「情報の粘着性仮説」
「情報の粘着性仮説」という言葉がある。マサチューセッツ工科大のエリック・フォン・ヒッペル教授が提示したコンセプトで、「ある場所に存在している情報を、他の場所に移動させるのにかかるコスト」という意味だ。つまり情報は特定の場所にネバネバとひっついてしまいがちで、これをはがして他の場所に持って行くのはたいへんである。そしてこの移転コストによって、そのネバネバさ加減が推し量れるというようなことだ。
ヒッペル教授はこの情報の粘着性仮説を使って、イノベーションがどこで起きやすいかというのを説明した。
商品やサービスを開発するためには、技術と消費者のニーズがマッチしていなければならない。たとえば新しいウェブのサービスを投入しようとすると、まず第一にそのソフトウェアを作り出す技術力が必要になる。そして一方で、消費者にそのサービスが本当に期待されているのかどうかをきちんと把握しなければならない。つまりそこには「技術情報」と「ニーズ情報」という二つの情報が必要だということになる。
かつては、こうしたニーズ情報もメーカーの側が何らかのかたちで把握するのだと考えられていた。あくまで主体はメーカーであって、自分の持っている技術情報を活用し、そしてユーザーのニーズを機敏に察知して商品を開発するというとらえ方である。だが1970年代以降、実は商品開発の中心地は必ずしもメーカーばかりではなく、消費者の側が中心地になるケースもあるということがだんだんとわかってきた。ヒッペルの情報の粘着性仮説は、こうした流れの中で生まれたコンセプトである。
ここで言われている「情報」というのは、単体のデータだけを指すのではない。たとえばある農業関連ベンチャーA社が、自社に関連する農場の農産物生育状況や集荷状況などを数値化したデータCを持っていたとする。泥棒がこの会社にこっそり忍び込み、サーバーからハードディスクを抜き取って外部に持ち去った。泥棒はこのデータCを暴力団系の企業B社に持ち込んだが、しかし医療関係の仕事をしているこのベンチャーでは、社員のだれひとりもA社のデータCの意味を理解できない。データは数値の羅列として表示されるだけであり、まったく体系化されていないし、そこからどのような意味を抽出するのかというコンテキストさえも持っていないからだ。
もしB社がこのデータを有効活用しようと思えば、A社からデータの意味がわかっている人を一緒に拉致してくるか、あるいはデータの意味を詳細に書いたマニュアルも同梱しておかなければならない。つまり情報と、その情報を司る体系の二つがセットになったものを移転しなければならないのである。
このような場合、B社にとってデータCの粘着性は高いという言い方をする。ヒッペルは(1)情報の性質(2)情報の受け手と送り手の属性(3)移転しなければならない情報の量−−の3つによって情報の移転コストは変わってくると説いた。(1)に関して言えば、たとえば数値データとテキストデータをマイニングするのは難しいし、暗黙知を人に伝えるのも大変である。(2)は先に書いたようなケースだ。受け手が情報の意味がわかっていなければ、情報を移転するコストは増えてしまう。そして(3)情報量が多ければ、当然移転コストも大きくなる。
ではこの情報コストの概念が、イノベーションにどのような影響を与えるのだろうか。イノベーションの原動力になっているのは、問題解決だ。たとえば「この技術を突破できれば、新しい商品ができる」「このニーズを満たすことを考えれば、新しい商品が開発できる」。そうなると、その技術やニーズの情報がどの程度移転可能かどうかが、商品開発にとって重要な意味を持ってくることになる。
たとえばメーカーがオンリーワンの技術を持っていて、しかも消費者のニーズを容易に理解することができれば、イノベーションはメーカーで行われる。消費者にはメーカーのオンリーワン技術を理解する能力も技能もないから、消費者とイノベーションは交わらない。一方で、ごく簡単な技術を使っただけの商品ではあるが、しかし非常にニッチな市場にマッチしそうな商品というようなものであれば、メーカーではなく消費者が商品開発の主体になりうる。メーカーはそのニッチ市場の意味がなかなかりかいできないからだ。これが「ユーザー・イノベーション」である。
前者は、技術情報の粘着性が高くて、ユーザー情報の粘着性が低いケース。メーカーが消費者のニーズを理解する方が、消費者がみずからのニーズを満足させるメーカーの技術を理解するより簡単だからだ。そして後者は、技術情報の粘着性が低くて、ユーザー情報の粘着性が高いケース。メーカーが消費者のニーズを理解するより、消費者がみずからのニーズを満たす技術を取ってくる方が簡単だからである。
このようにして情報の粘着性仮説は、「情報の移転コスト」というものを軸にして、イノベーションがどこで起きやすいのかを解き明かしたのだった。
■小川進教授の「イノベーションの発生論理」
この考え方をさらに推し進めたのが、ヒッペル教授の弟子である小川進神戸大大学院教授である。小川教授は「イノベーションの発生論理−−メーカー主導の開発体制を越えて」(千倉書房、2000年)という書籍の中で、技術情報とニーズ情報に加えて、「小売販売情報」という情報もあることを指摘した。つまりイノベーションは「メーカー」「消費者」だけでなく、「流通」がイノベーションの主体になることがあることを解き明かして見せたのである。
このすぐれた書籍の中で、小川教授はコンビニチェーンのセブンイレブンを徹底的にリサーチし、商品開発をめぐる興味深いケースをいくつも紹介している。その中のひとつは、次のような話だ。
——サンリオは古くから「ハローキティ」のキャラクターを育ててきたが、しかし年月が経過するに従って、徐々に関連商品の売り上げが減ってきた。そこでサンリオはキティにバリエーションを持たせることで、ターゲットとする顧客ごとに違うタイプのキティを作ることにした。以下のような組み合わせだ。
赤のキティ=オリジナル
ナースキティ(看護婦のキティ)=高校生からOL
モノトーンキティ(黒と白のキティ)=高校生からOL
カオ・ハナ(キティの顔の回りに花をあしらったもの)=中・高校生
和風(日本の伝統の色、デザインを使ったキティ)=OL
サンリオはこのターゲティング戦略をうまく展開し、1990年代に大ブームを巻き起こすことに成功した。そしてこのターゲティング戦略に目をつけたのが、セブンイレブンのMD(マーチャンダイザー、商品企画を行う人)だった。菓子メーカーのロッテは、キティの版権を持っている。そしてセブンイレブンのPOSデータを調べてみたところ、ナースキティをターゲットにしている客層が、フレッシュメルという消臭効果のあるキャンディと同じ顧客層になっていることをこのMDは発見したのである。
そこでMDはロッテに対して、フレッシュメルにナースキティをつけてキャラクター商品として販売することを提案し、この提案はすぐさま受け入れられて商品化され、そして大成功を収めることになった。本の中では、ロッテの担当者のこんな言葉も紹介されている。
「キャラクターと商品は一致しないと売れません。キャラクターと商品の組み合わせという点で、北島MDの意見を聞いて参考にすることがあります。我々も出荷ベースのデータなどは持っているのですが、実際の販売に関するデータや客層分析のデータは手に入らないのです」
このコメントについて小川教授は、こう書いている。「メーカーでは、実購買に基づいた顧客層情報を入手することが困難である。他方、小売企業は、日常業務で顧客層情報を大量に入手することができる。そして、その顧客層情報を他の商品情報とタイミングよく結びつけることで、メーカーの製品企画に貢献できる」
つまりここで書かれている「顧客層情報」が、技術情報、ニーズ情報と並ぶイノベーションのための重要な小売販売情報となっている。そしてこの顧客層情報はセブンイレブンが一手に握っていて、メーカーや消費者にとっては情報の粘着性が高い。このためイノベーションはメーカーでも消費者でもなく、流通であるセブンイレブンを軸にして起きることになる。
この小川教授の理論は、インターネットを介したウィキノミクスにおいてもきわめて重要な意味を持っている。次回は、その点について考えてみよう。
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