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小田中直樹の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」

他所(特にフランス)の過去を参照しながら、日本の「現在と未来」を考えるアクチュアルな論考。

第6回 バベルの塔・そのII

2007年9月 3日

今回から3回にわたり、不肖小田中がうなりながら読んだ記事「バベルの塔」(『ル・モンド』2007年5月25日)を紹介し、フランスの現在をかいまみるとともに、日本と比較してみたい。本来であれば全訳を紹介したいところだが、版権などの問題がありそうなので、大まかな訳で我慢してほしい。まずは最初の三分の一。


「バベルの塔」(『ル・モンド』2007年5月25日)その1
小田中直樹・概訳

ある夕方、パリ19区はカンブレ通りにある団地で、サングリアとクラッカーが準備されたテーブルを囲み、乾杯し、軽食をつまみ、噂話を交わす集まりが開かれた。一見、パリではよくある出来事だ。ただし、普通の集まりとちがう点がひとつある。屋外ではなく、玄関ホールで開かれていることだ。じつは、2000年代の初めから地元の若者たちが徒党を組んでここに居座るようになった。そんなわけで、ミシュレ団地P棟の住民たちにとって、この「お隣さん同士のアペリティフ(食前の一杯)」は「再征服の手段」であり、いいかえればソフトな武器である。アペリティフの目的は彼らを説得すること、つまり「やることがなく、ビールで酔払い、玄関ホールをタバコの煙だらけにする彼ら」を片付けることなのである。

説得パーティというこのアイディアは、P棟の3人の住民からうまれた。そのひとりは「びくびくするのには、いいかげん飽き飽きしたんです」と語った。日がしずむや否や玄関ホールにたむろし、敵意を示す若者たちをかきわけて家路につくのには「飽き飽きしたんです」。郵便受けがこわされ、ゴミ(や、場合によっては糞尿)が廊下やエレベーターを汚し、「ときには真夜中から深夜2時まで続く」騒音には「飽き飽きしたんです」。「住民の一部を標的とする暴力」については、いうまでもない。住民のおおくは引越しを考えたが、しかしそれはムリだ。だいたい、家賃月500ユーロ以下の快適なアパートなんて、パリのどこにあるというのか。P棟を去ったのはたった1人、抵抗できないほどおびえてしまった老婦人だった。

【1】団地にガンジーの手法を応用する?
 警察に訴えるというのはどうだろうか? 住民にいわせれば「それではなにも解決できません。そんなことをしたら、若者たちは反発し、事態は悪化したでしょう」。長期にわたる考察と相談のすえ、2002年、参加者は10人程度だったが、玄関ホールで最初の住民パーティが開かれた。「若者たちは外にいて、わたしたちが立去るのを待っていました。でも、わたしたちは我慢し、玄関ホールに2、3時間いました。最後には、若者たちは撤退し、立去りました。つまり、彼らはうんざりしたんですね」。それ以来、不定期にではあるが、何度かパーティが開かれてきた。これは、非暴力不服従という「ガンジーの手法」を団地に応用したということなのだろうか。とにもかくにも、郵便受けが新しいものにとりかえられて以来、それをこわすものはいなくなった。そして、廊下は清潔である。

18階建ての建物16棟が立並び、5ヶ所の敷地出入り口があるミシュレ団地は、しかしながら、1969年の落成当時は、さっそうとした雰囲気だった。そこに住むサブチッチ夫妻は「エレベーターはじゅうたん張りだったんですよ……」と述べ、当時のことをうっとりと思いだした。ともにユーゴスラヴィア生まれの夫妻は、1960年代半ばに母国を去り、「旅行者として」到着し、忍耐強くこの地に根を張ってきた。夫のジボタさんは絵付け職人になり、妻のヴィオレットさんは仕立て職人になった。サブチッチ夫人には、幼少以来のスラヴ的な巻き舌の「r」が残っている。もうひとつ、「多様性のなかで」育てられたという記憶も残っている。なにしろ、夫人によれば「わたしの家族には、共産主義者、キリスト教徒、イスラム教徒と、すべてそろってるんですよ。おまけに甥はブルターニュ人だし……カンカル生まれです」。(続く)

さて、このルポルタージュを読みとくに際しては、まず、パリ19区、フランドル大通りにほど近いカンブレ通りにあるミシュレ団地、という舞台に着目しよう。この団地はパリの右上つまり東北部に位置するが、この辺は、下町というか、大衆的というか、貧しいというか、なかなかやんちゃな地区である。ちなみに、これに対してパリの西側は、金持ちやエリートが住む地区になっている。フランスは2階級社会だが、ことパリでは、エリートと大衆はそもそも空間的に分離されているのだ。

もっとも、昔からパリのエリートと大衆の居住空間が分離されていたわけではない。外人部隊が設立され、ユゴーが『レ・ミゼラブル』で描きだした7月王制のころまでは、エリートと大衆は、大抵は同じ建物に住んでいた。もっとも、どちらかというと、エリートは下の階を、大衆は(エレベーターがないので上り下りが大変だが、そのぶん家賃が安い)上の階を選ぶ傾向にあった。

ところが19世紀の半ばから、建物を立てかえ、道路を拡幅するなど、パリを大改造する都市計画が始まる。都市計画をもっとも強力におしすすめたのは、1850年代にパリを含むセーヌ県の知事をつとめたウジェーヌ・オスマン。彼は、ときの皇帝ナポレオン3世の寵愛を背景に、まさに人間ブルドーザーの勢いでパリの街を一新してゆく。そんな彼に敬意を表してか、今日、この都市計画は「オスマン化(オスマニザシオン)」と呼ばれている。

オスマン化によって、パリは、ぼくらが今日みるような、美しい街になった。道路は汚れているし、排気ガスはひどいが、それでもカフェのテラスに腰をおろすと、ああ、いいなあ、という気持ちになるはずだ。

でも、とりこわされた建物の住民はどうなったか? 彼らは当然立退きを迫られたが、エリートはカネもあるし、OKだった。問題は貧しい大衆である。彼らは、新しくなった建物に住むだけの家賃を払えるはずもなく、結局、都市計画が遅れ、古くて家賃が安い建物が残る地区に引越すことになった……その典型が、このルポルタージュの舞台となった「右上」である。

いや〜、それにしても、アペリティフっていいよね。数年前から日本でも「アペリティフの日」ってのが始まったが、帰宅前の一杯(夕食は自宅で食べる)って習慣は、日本でも根付いてほしいものである。

それにしても、アペリティフが「再征服の手段」で「ソフトな武器」ってのは、一体どういうことだ? ああ、そうか、いい若いもんが日の高いうちから団地の玄関ホールにたむろして飲むわ騒ぐわ暴れるわするので、どうにかしなきゃいけないってことになったんだね。それにしても「住民の一部を標的とする暴力」とはねえ……フランスって、怖いですね。パリって、野蛮な街ですね。フランスの若者って、いやですね。

だが、である。

な〜んて他人事みたいに評論できたのは、もはや昔のこととなった。いまやこの日本も、かの「セキュリティ」をキーワードとする犯罪多発社会になってしまったではないか!! 皆さんもそう思わないだろうか。

つい先日、「新しい歴史教科書をつくる会」元副会長にして現在は埼玉県教育委員をつとめている教育学者・高橋史朗氏の講演会があり、諸般の事情で(だれが講演するのか、当日まで知らなかったのだが)参加してきた。そこでも、最近は若者による凶悪犯罪が増えてるので、親がしっかりしなければならないことが強調されていた。

だが、である。

若者は凶悪化してるのかね、本当に? じつは、そうではない。第二次大戦終了後のトレンドをみると、若者の犯罪は減ってきている。それなのに、ぼくらは、治安が悪化し、セキュリティが脅かされていると「体感」している。つまり客観的な「治安」と主観的な「体感治安」のあいだに、なぜかギャップが生じてるわけだ。不思議ですね、変ですね、怖いですね、それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ(古いか)。

本日のまとめ……治安と体感治安はちがうけど、アペリティフはいいぞ

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プロフィール

1963年生まれ。東北大学大学院経済学研究科教授。専攻は社会経済史。著書に『ライブ・経済学の歴史』『歴史学ってなんだ?』『フランス7つの謎』『日本の個人主義』『世界史の教室から』などがある。

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