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小田中直樹の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」

他所(特にフランス)の過去を参照しながら、日本の「現在と未来」を考えるアクチュアルな論考。

第11回 アイデア勝負・そのIII (PACS)

2007年10月22日

(これまでの小田中直樹の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はこちら

いやぁ、先日のフランス大統領選挙は、なんというか、まぁその〜、うーむ、個人的にはじつにつまらんプロセスと結果だった。第1回投票でフランソワ・バイルーが落ちた時点で、もう「あとは野となれ山となれ」というか「わが亡きあとに洪水よ来たれ」の心境になった不肖小田中である。

フランス政界はちょうど世代交代の時期を迎えている。簡単にいうと「1968年を知る世代」がいっせいに引退し、「1968年を知らない世代」が政界の主導権を握ったのが、今回の大統領選挙のひとつのポイントだった。もちろん「1968年」とは、フランスからドイツから日本からアメリカに至るまで、世界各地で盛上った学生反乱のことである。日本的にいえばポスト「団塊」世代が政治を担うことになった、という感じだろうか(ということは、つまり……)。

【1】
2月にフランスにちょっと出かけたときのことだ。ちょうど大統領選挙キャンペーンが始まったころだったこともあり、候補者たちのインタビューをテレビでずいぶん見た。有力候補者はセゴレヌ・ロワイヤル(社会党、左派)とニコラ・サルコジ(民衆運動連合、右派)の2人。両者が決選投票に進出し、後者が勝利を収めたのは周知の事実であるが、2人はともに1950年代生まれで、ポスト団塊世代に属している。ちなみにサルコジは露骨に「1968年の悪しき伝統をたちきろう!!」と主張し、左派のひんしゅくを買っていた。

ところが、ありていに、そして100パーセント主観的にいえば、どちらも大統領の器ではない。フランス語には「国政を委ねられる政治家」を意味する「オム・デタ(homme d'etat)」という表現があるが、どっちも「オム・デタ」とはいいがたい雰囲気を漂わせていた……というのは、時差ボケで苦しむ政治素人・不肖小田中のひが目であったろうか(修辞疑問文)。

実際、当選したサルコジはあれこれ細かいところまで政策に口を出し、エネルギッシュというよりは「お前は番頭かよ!!」というノリである。側近の反対をおしきって社会党をはじめとする左派の有力者を大臣職などに起用したが、それも「政策路線にもとづく門戸開放」というよりは「社会党の分裂を図る政治手法」ととられている始末。本心はどっちでもいいけど、やっぱりイメージは大切だよ、イメージは(でも支持率高いんだよなあ)。

落選したロワイヤルはどうか、というと、なんといっても選挙後2ヶ月近くも「敗北」を認めなかったというあたりが、なんだかなあ。本人いわく、ありゃ「敗北」じゃなくて「善戦」なんだと……って、んな、夏の高校野球じゃあるまいし。政策的にも、一番のウリは「参加民主主義」だが、それは政治手法であって政治目的じゃないでしょうに。ついでに、大統領選挙から国民議会選挙を経て、彼女の一挙手一投足は党内路線闘争を刺激し、さてどうなるか、ワクワク、というところで、残念ながらヴァカンスに入り、どうにか政治休戦とあいなったわけである。

ぼく自身はフランス社会党に恩も義理も権利もな〜んにもないが、ひとつの政党(フランスだと民衆運動連合)が強くなりすぎると、政治は面白くなくなる。やっぱり最低2つは政権担当可能政党がないとね。ところが、社会党は、サルコジの引抜き政策とロワイヤルのキャラクターで、いまやガタガタである。これでいいのかフランス?

などと書くと、余計なお世話だ!! とか、日本はど〜なんだよ日本は、えっ? とかいった声が、はるか西方から聞こえてきそうである……が、答えはひとつ。

「どーもすいません」。

【2】

それではフランス社会党に未来はないのか? 昨年、同党大統領候補の座を争ったのは、ロワイヤルのほか、ドミニク・ストロスカーン(DSK)とロラン・ファビウスの計3人。このうちロワイヤルはタマでなく、DSKは哀れサルコジの引抜き政策の毒牙にかかってIMF専務理事への道をまっしぐら、ファビウスはエリートすぎて大衆的人気ゼロ。

うーむ、やっぱりお先真っ暗か……というと、じつはそうでもない。国民議会選挙ではパリとリヨンという2大都市で社会党所属の市長が同党の退潮をくいとめ、次期リーダーとして浮上してきた。パリ市長ベルトラン・ドラノエ、リヨン市長ジェラール・コロン、この2人である。

このうち、個人的にはドラノエが興味深い。彼は、2001年地方選挙で、長いあいだ保守の牙城だったパリ市政(前大統領ジャック・シラクも長らくパリ市長をつとめた)を奪還したことで、日本でもはじめて知られるようになった。しかし、その後じつに多様な企画をすすめつつ、今日に至っている。たとえば、セーヌ川沿いの道路を通行止めにし、砂をしき、ビーチ・パラソルと椰子の木を並べてビーチにしてしまおう!!、色々な理由でヴァカンスにいけないパリジャンよ、ここに集まれ!!、ついでに観光客もどうそ、という大胆不敵なヴァカンス政策、その名も「パリ・プラージュ」も、彼の就任直後に始まった……が、普通やるか、こんなこと?


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ちなみに、そのドラノエが書いた自伝的な本(『リベルテに生きる』(八木雅子訳、ポット出版、2007、原著2004))がこの夏翻訳され、日本語で読めるようになった。グッジョブ!!

【3】
ドラノエがはじめてひろくフランスで知られるようになったのは、上院議員としてPACS法案を強力に推進したときである。そして、このPACSこそ、フランスが誇る「アイデア勝負」のひとつである。いやあ、ようやく今日の本題に入ったか……遅すぎるって。

1999年に法制化されたPACSは、日本語では「連帯民事協約」などと訳されるが、正式には「契約の一種であり、共同生活を組織するために二人の人間が締結する。両者は成人でなければならないが、同性異性を問わない」と定義される。これによって、性別を問わず、いかなるカップルも、納税や相続などについて結婚に準じた権利を行使できるようになった。ただし、日本でも知られているとおり、その眼目は同性愛者のカップルにも一定の法的な権利を保障することにある。

PACSの実効性については色々な評価があるらしいが、こんなこと本当にやっちゃうんだから、やっぱりフランスって(以下略)。


本日のまとめ……器だよ、器

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プロフィール

1963年生まれ。東北大学大学院経済学研究科教授。専攻は社会経済史。著書に『ライブ・経済学の歴史』『歴史学ってなんだ?』『フランス7つの謎』『日本の個人主義』『世界史の教室から』などがある。

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