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小田中直樹の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」

他所(特にフランス)の過去を参照しながら、日本の「現在と未来」を考えるアクチュアルな論考。

第1回 気分はもう戦争・そのI

2007年7月30日

そうだよなぁ、今頃フランス『では』みんな仕事帰りにカフェに寄り、パスティス(というのは地中海沿岸地域にひろくみられる、ニガヨモギで風味をつけた酒のひとつで、トルコではラク、ギリシアではウゾと呼ばれているが、水で割ると白濁し、氷を浮かべて飲むと、これがもう……)で一杯やってんだろうなぁ、いいなぁ、うらやましいなぁ、それにくらべて日本ではさぁ……。

はっ、いつの間にか出羽守(でわのかみ)になってた! いかんいかん。

【1】
「出羽守」とはなにか、皆さんはご存知だろうか。いまじゃほとんど死語と化してるような気もするが、なにかというと「おフランス『では』……」とか「おイギリス『では』……」とか「おアメリカ『では』……」とかいって(あっ、イギリスやアメリカには「お」は付けませんね)、そして「それなのに日本では……」とぼやく手合いを、むかしは「出羽守」と呼んでいたのである。たとえば、明治時代だと「欧米『では』独立自尊がオシャレ!」と叫んで文明開化を説いた福澤諭吉(面倒くさいので、以下すべて敬称略)、最近では「世界『では』ブッシュ・ジュニア政権を支持するのがトレンディ(これも死語)なんだよ、感動した!」とカマシてくれた前首相が、代表的な出羽守である。

もちろん、出羽守というのは、ちょいと軽蔑の意をこめた表現ではある。でも、これって、異時空間に関する情報を提供し、身近なことを相対化する機会を提供してくれる存在でもある。他者理解の重要性が叫ばれている今日、出羽守にも一定の存在理由が出てきたのかもしれない……って本当か? ついでに、ぼく自身が一応19世紀フランスを専門に勉強しているということもあるので、この連載(順調にゆけば全13回)では、不肖小田中が出羽守として、つまり「他所(とりわけフランス)」の「過去」を「日本」の「現在と未来」を写しだす鏡として使いながら、こころにうつりゆくよしなしごとをそこはかとなくかきつくってみたい。

過去を見ながら未来を考えるか……つまりこれって「Back to the Future」ってことじゃないか、われながら大風呂敷だが。

【2】
それじゃ出羽守のチャンピオンはだれか。いろいろと意見はあるだろうが、ぼくは、第二次世界大戦直後に「ナチス・ドイツ『では』トップは確信犯で格好良かったのに、日本の軍部や政府のお偉いさん、ダサすぎ」と喝破した政治学者・丸山眞男にとどめをさすと思っている。彼自身の言葉でいうと、東京裁判とニュルンベルク裁判の被告を比較して、彼は「土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する」(「超国家主義の心理と論理」、『増補版 現代政治の思想と行動』、未来社、1964年、初出1946年)と切ってすてる。このケンカ腰の(ポレミカルな、ともいうが)レトリックには、まいりました、ついてゆきます、としかいいようがない。なお「丸山=出羽守」なんてことを書くと、丸山は日本政治思想史の専門家だったとか、「古層」論はどうなんだとか、いろいろと異論が来るかもしれないが、そのときはすみません。

ところが、聞くところによると、そんな丸山を「ひっぱたきたい」と公言する文章が今年はじめに活字になり、一部で論議をまきおこしたらしい。でも、そもそも丸山は10年ほど前に死去しているからなぁ、実際にひっぱたくのは無理だと思うよ……というわけのわからん第一印象だったので、そのときは読まなかった怠慢な不肖小田中である。それでも、ケンカ腰の丸山にケンカを売るとはやるじゃん、というわけで、今頃になってあわてて(ここのところ貧乏なので大学図書館に走って)件の文章を読んでみた。

さてさて、件の赤木智弘「丸山眞男をひっぱたきたい」(『論座』2007年1月号)である。書いてある中身を強引にまとめると「大人が既得権益を守ってるから、ぼくら若者の日常生活は閉塞している。こんな状況はリセットするしかない。リセットといえば、なんてったって戦争。気分はもう戦争」ってところか。それにしても、われながらヘタクソなまとめである。

いやぁ、じつに(アダム・スミス的な意味で、だが)同感できる話だ。ぼくは既得権益をもった大人なので、ぜんぜん共感は出来ないが、31歳でフリーターだったら結構そう思うのかもしれないね。「閉塞感+リセット=戦争」かぁ、黄金の公式だね。ただし、この公式は、それこそ大学紛争にもオウム真理教にもみられたような気がするから、べつに新しいものじゃない。そういえば、大学紛争でも丸山は攻撃対象になったのだった。まこと歴史はまわるものである。

赤木の所説に対しては、その後、そうそうたる面子から反論が寄せられた(『論座』同年4月号)。それを要約すると
・甘えんな(佐高信、森達也)
・悪いのは支配階層です(奥原紀晴『赤旗』編集局長)
・戦争に行かされるのは、きみだ(福島みずほ、斉藤貴男)
・他のことで立ちあがれ(若松孝二、鎌田慧)
という感じになる、ような気がする。

でも、赤木の再反論(「結局、『自己責任』ですか」、『論座』同年6月号)をみると、これら批判は彼に届いていないことがわかる。まぁ「戦争に行かされるのは、きみだ」とか「他のことで、立ちあがれ」とかいわれても、「わたしの戦争への意思は、単なる脅しやレトリックではない」(「結局」)と言いきる相手には届くわけないし……「甘えんな」じゃ単なるお説教で、効きそうもないし……「悪いのは支配階層です」というご高説は、なんかズレてるし……うーむ、さて、なにが問題なのかねえ、いったい。

【3】
とりあえず原点にもどろう。「ひっぱたきたい」と名指されたのは丸山だが、彼だったらどうこたえたのだろうか。丸山は、個人の尊厳を尊ぶ「戦後社会科学」と呼ばれる潮流に棹差していた。そう、彼は個人主義者だったわけだ。ついでに、優秀な出羽守でもあった。

簡単にいいなおそう。「個人主義+出羽守」というスタンスに立つと、赤木のようなスタンスに対しては、どんな回答が可能か。ちなみに、「閉塞感+リセット=戦争」という彼のスタンスはそれなりの人数に共有されているかもしれないので、これを(矢作俊彦「気分はもう戦争」小説版の無料公開を記念して)「気分はもう戦争」論と呼ぶことに決めました。勝手にすまないが、ここからは、彼個人ではなく「気分はもう戦争」くんに即して考えてみたい。

ぼくは政治学にも丸山の所説にも個人主義にも詳しくないが、とりあえず、パスティスを飲むのを我慢して、ちょっと考えてみた。そして沈思黙考すること数分、ピンポーン!、ひらめいたのである。

不肖小田中がない頭をふりしぼって考えた、かの「気分はもう戦争」くんに対する個人主義的で出羽守的な回答……そのヒントは

「モロッコ」

関心をおもちの方は、予想回答を(コメント欄は開放されていないらしいので)トラックバックで寄せてくださると、とてもうれしい。では次回を瞠目して待て……って、これ「瞠目」でいいんでしたっけ?


本日のまとめ……出羽守はえらい

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プロフィール

1963年生まれ。東北大学大学院経済学研究科教授。専攻は社会経済史。著書に『ライブ・経済学の歴史』『歴史学ってなんだ?』『フランス7つの謎』『日本の個人主義』『世界史の教室から』などがある。

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