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小田切博の「キャラクターのランドスケープ」

マーチャンダイジングの観点から、マンガ・アニメ・ゲームなど、日本の「コンテンツ・ビジネス」の現在を考える。

「ポケモン」はどこから来たか?

2008年11月 5日

マンガやアニメやゲームや映画、小説に最近は携帯コンテンツ、エンターテインメント消費に溢れた社会に生きる私たちは比較的簡単に「キャラクター」という言葉を使う。
しかし、そこでいう「キャラクター」がなんなのかということはけっこう曖昧で言葉の使い方も割りと適当だ。その曖昧で適当なものの内実はどんなものかをちょっと考えてみよう、というのがここでのお話。

たとえば現在のアメリカでのアニメやマンガの人気はポケモンのヒットが重要な転換点になっている。ところが、このアメリカでのポケモン人気がどういうものなのかは意外と考えられていなかったりする。アニメやマンガの研究者、批評家は「それ」をアニメのブームとして語ろうとするし、実際けっこうアニメだってヒットしたわけだが、いうまでもなくポケモン、ポケットモンスター自体は携帯ゲーム機用のビデオゲーム発のコンテンツである。
アニメやマンガというコンテンツは飽くまでもゲームのあとを追うかたちで展開されたわけで、この現象を評する際にアニメが当ったとか当らないとかいう話を焦点にしてしまうと当然おかしなことになる。
しかし、じつはこの「おかしなこと」がけっこう頻繁におこなわれていたりする。

マンガ原作者で批評家の大塚英志は『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』(角川Oneテーマ21、2005年)という本の中でまさにアメリカでのポケモン映画の興行収入を根拠に「ジャパニメーション」ブームが虚構に過ぎないと主張しているし、個人的に大学でマンガやアニメの研究をしているひとたちから「アメリカでのポケモンブームはアニメからなのか?」といったかなりピントのずれたことを聞かれた経験もある。

では逆にこの現象をビデオゲームのヒットに限定して語れるかといえばそれも違うだろう。実際99年4月26日の『The New York Times』紙に掲載されている「Mania for 'Pocket Monsters' Yields Billions for Nintendo」という記事はカードゲームのほうのイベントの様子から語り起こされており、同紙の以降の記事報道でもむしろカードゲームが語られている印象のほうが強い。当然ブームが加熱していくにつれアニメのヒットやポケモンショップでのグッズ展開なども報じられ、「ポケモンというゲーム」ではなく「ポケモンという現象」へと報道の関心自体が変化していく。

そして、この一連の流れはまったく不思議でもなんでもない。
実際には日本国内におけるポケモン人気だって似たようなかたちで推移したからだ。そこには特にアメリカ固有のなにかがあるわけでも日本固有のなにかがあるわけでもない。
要するにキャラクター消費というのはコンテンツの受容が一定以上の規模になれば必然的に「キャラクターがコンテンツから自律する」のである。ポケモンの例でいえばゲームをやったことがなくてもアニメは観たことがあるひとというのがすでにけっこう存在するはずだし、アニメすら見たことがなくてもピカチューやニャースといった登場キャラクターを知っているひとというのはさらに多いはずだ。

「ポケットモンスター」がメガヒットになったのはスタートコンテンツであるゲームが素晴らしくよくできていたからだが、ヒットして以降のブームにおいてはキャラクターの伝達や消費自体がコンテンツとは切り離されていく。コンビニで売ってるポケモンパンとか旅客機の胴体に描かれたピカチューを見て、いちいち「これはゲームのキャラクターで〜」とか私たちが考えるかといえば、たぶんそんなことはしてないわけで、そこには「ポケモンというゲーム」ではなくただ「ポケモン」が存在している。

批評家の東浩紀は『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年)の中でこうしたコンテンツからキャラクターが自律して消費されるような現象を「データベース型消費」と呼び、これをポストモダン特有の現象だとしているが、実際にはこれはひどくナンセンスな仮定である。
なぜなら単なる事実としてコンテンツから独立したかたちでのキャラクター消費はアメリカにおけるコミックスキャラクターの祖とされるイエローキッドの登場とほぼ同時におこなわれており、アメリカでの『スター・ウォーズ』登場以降は洋の東西を問わず一般的なマーケティング技法として確立されてもいるからだ。

現在、私たちはそれを「キャラクターマーチャンダイズ」と呼んでいる。

単にこれは「メディアミックス」とか「キャラクターマーチャンダイズ」といったどちらかといえば陳腐化したキーワードで説明できてしまう事柄に過ぎない。
にもかかわらず、海外での日本産コンテンツの人気やある世代固有のサブカルチャー消費を特殊なものと断じ、特権化しようとしなければならないのか? 個人的には疑問に思うべきなのはむしろそのことのほうじゃないかと思うのだが、その話はまたいずれ。

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プロフィール

小田切博

ライター、90年代からフィギュアブームの時期に模型誌、フィギュア雑誌、アニメ誌などを皮切りに以後音楽誌、サブカル誌等、ほぼ媒体を選ばず活動。特に欧米のコミックス、そしてコミックス研究に関してはおそらく国内では有数の知識、情報を持つ。著書として『誰もが表現できる時代のクリエイターたち』、『戦争はいかにマンガを変えるか』(ともにNTT出版刊)、共編著に『アメリカンコミックス最前線』(トランスアート刊)、訳書にディズニーグラフィックノベルシリーズがある。

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