「バルンガ」の寓話と「地球に優しい」という善意
2007年8月21日
今、「探偵学園Q」というテレビドラマが人気である。確かに志田ちゃん演じる美少女メグのコスプレはかわいいし、ブリグリのエンディングテーマ曲も最高だから、これは毎週必見である。しかし、今回話題にしたいQはそれではなく、大昔の怪獣ドラマ「ウルトラQ」のほうである。(とはいっても、「探偵学園Q」には、カネゴンなどのウルトラQ怪獣フィギャーを収集するキャラが登場するので、何か関係はあるのかもしれないけどね。)
さて、ぼくが子供の頃に夢中になったそのドラマ「ウルトラQ」に、「風船怪獣バルンガ」というのが登場したのだが、これが40年ほど経った今も鮮烈な記憶として残っているのである。
物語は、以下のようなものだ。
土星探査ロケット・サタン1号が地球に帰還し、燃料切れで墜落した際、期せずして連れ帰ってしまった風船怪獣バルンガが地球に到来することとなった。ロケットの墜落した海域を調査していた新聞記者が、バルンガを見つけ東京に持ってくるが、それが途中で巨大化して、東京上空を占拠することになる。
バルンガは、あらゆるエネルギーを餌として食らい、それで成長する怪獣である。上空から東京中のエネルギーを吸い尽くしてどんどん巨大化して行くのだ。自衛隊の攻撃もなんのその、それは打撃を与えるどころか栄養とされてしまうのであった。その直後、東京を巨大な台風が通過し、その台風がバルンガを退治することが期待されたが、バルンガは台風のエネルギーさえも食い尽くして、さらなる巨大化をする。その結果、東京では、すべての動力が停止してしまい、大変な混乱が生じるのであった。
そんな頃、新聞記者たちは、ナナマル博士という人物と出会う。博士は、昔、隕石に付着したバルンガの種子をみつけ、その生態を学会で発表した科学者である。その際、バルンガの危険性を十分認識し、種子を発芽させることをしなかったためにペテン師呼ばわりされ、学会を去るはめとなったのである。その博士が、バルンガを退治できる唯一の方法を考案するのだ。その作戦とは、宇宙空間に人工太陽を作り出し、そのエネルギーで誘惑して、バルンガを宇宙におびき出す、というものである。新聞記者がこれを国連に伝え、国連によって実行に移され、バルンガは宇宙に去っていくのであった。
実は、この作戦における人工太陽は、単にバルンガに本来の餌を教える役割を担うだけのものにすぎない。バルンガは、恒星を食らう宇宙生物なのである。つまり、バルンガの本当の標的は、他ならない「太陽」というわけなのだ。物語は、石坂浩二の次のような内容のナレーションで終わる。
「明日晴れていたら、空を見上げてください。そこに輝いているのは、バルンガかもしれません」
ぼくら当時の小学生は、放送の翌日におそるおそる空を見上げて、そこにあるのがバルンガではなく太陽であることを確認して、ほっと胸をなでおろしたものだった。(ほんとなんだってば。)
この物語が、大人になってもぼくの心に残っているのは、そこに強烈なメッセージ性があるからである。そのメッセージとは、まさに「環境問題」である。
原作者が「バルンガ」に込めたメタファーは、消費文明批判に他ならないだろう。あらゆるエネルギーを食い尽くし、それでも飽きたらず、さらなるエネルギーを求める貪欲な生きもの。それは、20世紀の人類の姿そのものである。この物語は、そのような飽くなき消費追求に対する警告だと捉えることができるだろう。実際、ナナマル博士は、バルンガを「自然現象」だといい、「神の警告」とまで称している。そして、最後にバルンガが狙う「太陽」、それが「原子力」の暗喩だ、というのはぼくの深読みすぎであろうか。
しかし、ぼくは今回、この物語を別の意図を持った寓話に転用しようと企てているのだ。現在、世界規模で起きている環境保護への市民の傾倒、それこそが「21世紀のバルンガ」だ、そういう寓話である。
ナナマル博士は、病院の屋上から、すべての動力が停止し空気の澄んだ東京をすがすがしく眺め、こんなことをいう。「皮肉なことだ。こんなに静かな東京は何年ぶりだろう」。しかし、その階下では、電力がないために手術もままならない患者たちが苦しんでいるのだ。ぼくはこのシーンに「21世紀のバルンガたち」のもたらす帰結をかいま見るのである。
今、市民たちは、「地球に優しい」という美しい善意を、巨大な風船のように膨らませている。
その善意自体は、もちろん、とても尊いものである。人類もまだまだ捨てたものではない。
でも、「善意」というのが、考えようによっては、とてもやっかいなのだ。「善意」は、ときとして、社会を深い落とし穴に陥れる。「善意」は、おおよそにして、「価値観の押し付け合い」をもたらし、社会を衰退に追い込むからだ。
例えば、今、「不要な包装」だとか「不要な割り箸」だとかがさかんに語られるが、ここでいう「不要」とはなんだろう。それは、誰にとっての「不要」なのだろう。誰がそれを決めるのだろう。何十億の人間がおのおのに「不要」なものを除去しあったら、いったいどのくらいの「有用な」商品が世の中に残るというのだろうか。あなたが生産に携わっている商品は、本当に「有用」だと胸を張っていい切れるだろうか。もしも、「相対的にみて不要」だとされたら、あなたは失業してしまうかもしれないのだ。(これを経済理論的に述べたのが、第2回の論説だから読み直してほしい)。
アダム・スミスが、著書『国富論』で、人間の利己心こそが社会を富ませる、と説いたのは有名である。実は、その思想に大きな影響を与えたものとして、マンデヴィル『蜂の寓話』というのがあるのだ[*1]。
マンデヴィルの寓話は次のような単純なものである。「利己心をはじめとして、虚栄心や欺瞞や羨望などありとあらゆる悪徳が思いのまま行なわれている限りにおいて、社会は繁栄を極めている。しかし、ある日、これらの悪徳を一掃したとき、いかなる結果が生じたか。商業やもろもろの職業は衰退し、技術は廃れ、失業と過疎が広がっていく」。つまり、人間の社会とは、慈愛に満ちた者の集まりではなく、「ブンブンうなる蜂の悪徳の巣」であり、そして、「私悪」こそが「公益」をもたらす、という非常に過激な、しかし、今となってはほとんど明快な主張だったのである。
このようなマンデヴィルの思想は、当時まだ支配的だったキリスト教的な、あるいは、ギリシャ的な価値観、「善」、「美」、「徳」などが、むしろ公益のためには障害となりうることを訴えたものだったといえる。
ぼくには「バルンガの寓話」が、この『蜂の寓話』の現代向けバージョン・アップに思えるのだ。エネルギー消費を否定して風船のように膨張する「善意」が、社会を衰退と不況と、そこから生じるいらだちに追いつめて行くのではないか。このぼくの懸念は杞憂にすぎないと言い切れるだろうか。ぼくらは、マンデヴィルやスミス以前の時代に退行しようとしてはいまいか。
もちろん、ぼくは、「環境保護」に大賛成だし、それが人類の向かうべき方向だ、ということに異論はない。そのことは著作を読んでくれればわかると思う[*2]。ただ、願わくば、みんなの「環境保護」への傾倒が、外向けの「善意」や「正義感」からではなく、「恐くなったから仕方なくちょっと引き返す」という程度の「利己心」から来るものであって欲しいと思っているのだ。たいして違わないように見えるかもしれないけど、これは大きな違いなのだ。
* * * * *
[*1] 以下、『蜂の寓話』の説明は、『命題コレクション 経済学』筑摩書房における宮本光晴の解説の引用および受け売りである。
[*2] 例えば、『エコロジストのための経済学』東洋経済新報社とか『確率的発想法』NHKブックスとか。
(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」はこちら)
小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」
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