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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

第1回 より幸福になるには、経済の働きから目をそらしてはいけない

2007年5月23日

初回にあたって、このブログにおけるぼくのテーマと意気込みをまとめておこう。

世の中の誰もが、幸せになることを望んでいる。もちろん、「幸せ」のあり方の順位付けは、人によって違うだろう。ある人は、大金持ちになることだといい、ある人は名声を得ることだといい、ある人は円満な家庭だといい、ある人は老後や病気になった際の安心だというだろう。でも、すべての人が、なんらかの基準における「幸福」を望んでいることは疑いない。

それなら、ぼくらは「経済の働き」から目をそらしてはいけないのだ。経済こそが、それらすべての「幸福」に通底するポジションにあるものだからだ。

経済と聞くと、「お金儲け」をイメージする人が多い。そして、何か汚いものでも見ているかのように、それを蔑み、嫌悪する人までいる。ぼくは、数学を研究していた頃は、人によく「さぞかし計算がお得意なんでしょうね」などと笑われたが、経済学者になったあとは、「どうやったら儲かりますかね」とか「どの株を買うべきでしょうか」とか「日本の景気はいつ回復するんでしょうね」などと尋ねられることが多くなった。でも、数学者が暗算や速算に磨きをかけている人じゃないのと同様、経済学者は「抜け目ない儲け方」を考えているわけじゃない。経済学者は(人によるとは思うが)おおよそ「どうやったら、みんながより幸せになれるか」を考えているのだ。

でも、その「どうやったら、みんながより幸せになれるか」を考えるためには、「お金儲け」のことを避けて通るわけにはいかない。なぜなら、社会におけるすべての生産や消費は経済の営みとして行われているからだ。学校や医療や司法や福祉などの人間の基本的人権に関わる部門だって、ちゃんと経済の歯車にはめられ、お金の流れの中で運営されている。高貴な芸術だって清らかな宗教だって、そういう経済のリンクから決して逃れることはできない。仮に、百歩譲って、それらの中に「金銭動機でやってない」ものがあったとしても、そのすぐ隣で行われている「お金儲けの世界」で起きることに巻き込まれないではいられない。社会は孤島の集まりではなく、あらゆる部門が緊密に結びついているからだ。そんなわけでぼくらは、「幸福」のことを考えるにはどうしても、「儲かりまっか?」の世界、経済メカニズムのありかたから、目をそらすことができないのだ。

でも、経済メカニズムの面からものごとを正視すると、あまり気分のいい結果が得られないことも多い。自分のまっすぐな正義感や義憤は水を差され、耳障りの悪い不愉快な結論が出ることも多い。経済の理解は、人をうっとりとするようなロマンチストから引きずりおろして、退屈なリアリストに仕立ててしまいがちだ。それでもぼくは、知的努力を放棄した自己満足のロマンチストよりは、思慮のあるリアリストの方がずっとましだ、と思っている。

このブログの大きな柱の一つは、「環境」のことだ。「どうやったら、よりみんなが幸せになれるか」という問題を論じる上で、「環境」のことが現代における最重要課題だと思うからだ。

環境問題について、それを「人の倫理」の問題だとか、「科学技術のレベル」の問題だと考えている人も多い。でもぼくは、そうではないと思う。もちろん、そういう面があるのも否定しないが、もっと注目しなくちゃならないのは「環境問題は結局、経済問題だ」という点なのだ。

環境問題が起きるのは、人がどうしようもなく無知でだらしなくて愚かだからだろうか。そして、科学が進歩すれば、自然に解決されるのだろうか。ぼくは、そうじゃないと思う。環境問題が起きるのは、人間が知的な生きもので、合理的に徹底的に「幸福」を追求するからである。そして、そんな人間の性向にマッチし、みんなができるだけ幸福になるようにと設計された社会システムが、昔に比べて人々を幸せにはしている一方、その代償として生み出している副作用、それこそが環境問題なのだと思う。もしも、この社会システムが、非常に上手に人々を幸せにするとても巧妙な仕組みならそれだけ、その仕組みのために起きる副作用の解決は難しいはずだ。それは、精巧な機械のどこか一部をいじっただけで機械全体が働かなくなる、みたいなことだと想像すればいい。巧妙にできた社会システムは、下手ないじり方をすると、環境問題の解決の代償にその仕組みが壊れてしまって、環境改善では埋め合わせのつかない不幸をもたらすかもしれないのだ。

例えば、現在、地球温暖化問題は人々の間で半ば「常識」と化し、マスコミなどのあおりもあって、世界中の人々の視線を一つに揃えつつある。それはとてもいいことだし、ぼく自身の嗜好にも合っているので、黙って尻馬に乗っかるべきなのかもしれない。でも、ちょっと気持ち悪くもあるのだ。ぼくの中のリアリストが、こういう風潮にしきりと警鐘を鳴らすのだ。それはどういう警鐘か。

ひょっとしてそういう人々全員が、二酸化炭素削減プログラムが実施されても「自分には大きな不利益はない」と思いこんで、賛成してはいまいか。自分は経済の対岸に立っているつもりになって、まっすぐな正義感で「悪者」を断罪する愉悦に浸ってはいまいか。もしそうなら、それはとても危険なことだと思う。そういう風に市民の足並みが揃い、社会の強引な方向転換がなされ、その結果、まわりまわった予期せぬ災いが自分たちの背後から襲いかかってきたとき、市民の持つヒステリーは、社会をはい上がれないほどの断崖に突き落としかねないからである。

例えば、不況や恐慌のとき、そういう社会現象が典型的に生じる。市民は、当初、銀行や大企業の不始末を仮想「悪者」として足並みを揃える。そして、まっすぐな正義感で、その「悪者」を社会から「精算」することを熱烈に支持する。平成不況のまっさかり、ぼくはとある「やりだま企業」の重役と話したことがあるが、その人は「うちの企業の負債が社会にご迷惑をかけてはいるのは事実だから、開き直るつもりは毛頭ないが、マスコミの攻撃はさながら魔女狩りのようだ」と苦々しく話していた。こういうマスコミの攻撃は、市民の不況に対するいらだちを代弁したものだといえるだろう。でも市民は、この段階ではまだ、自分の職と所得は確保され続けることを疑ってさえしない。彼らの大多数は、これらの大企業や銀行とは直接には関係がないからだ。けれど、経済社会では、対岸にいる人など一人もいない。その精算主義の災いがめぐりめぐって自分に降りかかってきた時はすでに遅く、誰もこの災いから逃れることはできなくなる。そしてパニックを起こした末、次なる仮想「悪者」を探すことに躍起になるのだ。

では、環境問題の解決が、どうしてめぐりめぐってぼくら全員に災いをもたらす可能性があるのか。もう長くなったので、それは次回以降にぼちぼち書いて行こうと思う。

こんな感じで、このブログでは、理論経済学者の立場から、経済メカニズムの分析を通して、さまざまな社会の問題に言及する。環境問題はその大きな柱の一つだけれど、それだけに限定せず、幅広い問題を扱うつもりだ。そして、読んでくださった方々が、経済の働きについてより専門的な眼力を身につけ、少しでも自分の中に「退屈なリアリスト」を住まわせるようになってくだされば、と思う。

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プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

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