このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第1回 情報環境研究をはじめるにあたって

2007年5月23日

■筆者自己紹介(1-1)

はじめまして、濱野智史といいます。今回Wired Visonが始動するにあたって、大変豪華なブログ・コントリビューター執筆陣の方々が揃っていますが(さらに今後も拡充されていくとのことで、私も一読者として大変楽しみにしています)、Wired Visionの読者の皆様の中で、私のことをご存知な方はほとんどいらっしゃらないかと思います。そこで自己紹介にかえて、私が過去に運営していたブログについて、簡単に紹介したいと思います。

いまから約4~5年前にあたる、2002年から2003年にかけて、私は「network styly *」というブログを書いていました(いまはもうサーバがないので、リンクは割愛します)。この時期は、ちょうど日本のネット界でもブログが話題になりはじめた頃にあたります。2002年の夏頃から日本でもMovable Typeを利用するユーザーがちらほらと現れ始めましたが(私もその一人でした)、当時のブログの雰囲気は、Wired Visionの前身にあたるHotWiredでの特集記事、「blogってどうよ?」(2003年5月)というタイトルが端的に表しているように思います。ほぼ同時期に、日本のネット界隈では、2ちゃんねる上で大規模な「祭り」や「オフ」が巻き起こり、「テキストサイト」と呼ばれる個人サイト・カルチャーが隆盛していたこともあり(『テキストサイト大全』(ソフトマジック、2002年)や『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』(翔泳社、2005年)等にまとめられています)、新しく米国から由来してきたブログというものに対し、「ブログって何か面白いの? 可能性あるの?」という疑問符つきでの注目が集まっていたのです。そして私は、こうした状況の中で、当時大学(院)で専攻していた情報社会論の知見を交えながら、ブログ自体に関する様々な考察(当時の言葉を使えば、ブログについてのブログを意味する「メタブログ」)を日々書いていました。

2004年に、私のは諸事情からブログの更新を終了してしまったのですが、その後の経緯についても簡単に述べておきます。大学院の修士課程を修了後、私は情報社会に関する社会科学系の研究所「国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)」の研究員として、哲学者・批評家の東浩紀氏が主催した研究プロジェクト、「情報社会の倫理と設計についての学際的研究(ised@glocom)」のスタッフを勤めました(ちなみにこの研究会には、Wired Visionのブログ・コントリビューターの一人、白田先生も委員として参加されていました)。さらにその後、紆余曲折があって2006年にGLOCOMは退職してしまったのですが、この1~2年、P2P(Winny)・SNS(mixi)・動画共有サイト(YouTube)等に関する小論を発表してきました。

つまり私の関心の対象は、ブログを書いていた当時から一貫して、ある一定の規模で利用者を集め(イメージ的には、数万人以上のユーザーを集めているもの)、しばしばその《社会的》な影響力が話題に上がるウェブサイト・ソフトウェアに向けられています。これらは、数年前であれば「ネットコミュニティ」(最近はこの呼び方はあまり聞かれなくなりましたが)と、昨今は「CGM(Consumer Generated Media)」や「ソーシャル・メディア(Social Media)」等と呼ばれるのが一般的です。ただし、ネットコミュニティという単語は若干閉鎖的な印象を与えますし、CGMやソーシャル・メディアという単語は、主に広告・メディア業界向けの「業界用語」(「ポスト・マスメディア」として打ち出したいという意図のこもった単語)という印象もありますので、これまで私は「グループウェア Groupware」を元につくられた造語、「ソーシャルウェア Socialware」という言葉でわざと区別して呼んでいたこともあります。ただし、このブログでは特にそうした用語法にこだわることなく、上のようなトピックについて論じていく予定です。

■「アーキテクチャ/環境管理型権力」についてのおさらい(1-2)

さて、自己紹介がやや長くなってしまったのですが、本題に入る前に、もうひとつ前置きをさせてください。CGMやソーシャル・メディアに関するブログはすでに数多く存在していますが、このブログでは、その対象についてどのように「アプローチ」するのか、という点に関するものです。

そのアプローチに関する私の所信表明は、「情報環境研究ノート」というブログ名に込めています。この「情報環境研究」というタイトルに、あえて英語読みのルビを振るとすれば、それは「アーキテクチャ・スタディ」というものになります。

この「情報環境=アーキテクチャ」という用語は、先ほども触れた東浩紀氏の「環境管理型権力」という概念(情報自由論」)から借り受けたものですが、さらにその来歴をさかのぼれば、これはローレンス・レッシグという憲法学者が『CODE』(翔泳社、2001年)の中で論じた、「アーキテクチャ Architecture」という概念に行き着きます。辞書的にいえば、アーキテクチャとは「建築」や「構造」といった程度の意味であり、その延長で、情報工学の世界では「情報アーキテクチャ」や「インフォメーション・アーキテクト(IA)」といった言葉が使われていますが、レッシグは、これを「規制(コントロール)の方法」の一つとして捉えています。

この概念はかなり有名ですので、Wired Visonの読者の方の中にはご存知の方も多いと思いますが、重要ですので、簡単に(かつ十分に)説明しておきたいと思います。例えば、近年大きな問題となっている、飲酒運転の問題について考えてみましょう。常識的に、飲酒運転は、悲惨な事故を引き起こす「悪い」ことだと考えられています。教習所に入ると、たいていの場合、飲酒運転で人生が真っ暗になってしまった人のドキュメンタリー風ドラマを鑑賞し、この「飲酒運転=悪」という考えを再確認するものです。レッシグは、こうした規制方法を「規範(慣習)」と呼びます。さらに、飲酒運転には、道路交通法という法律によって罰則が規定されています。しかもこの飲酒運転を行った者は、罰金が○円、免許資格の停止/剥奪を定める点数が○点、という形で「ムチ」が設定されています。この「ムチ」を受けてしまうのは大きな生活上の痛手になってしまうと判断し、人は飲酒運転という行為をしないように努めます。これが「法律」による規制です。

しかし、それでも飲酒運転をする者が絶えない。それは由々しき問題である。そう昨今では考える人が増えているように思われます。さらなる厳罰化が検討されていますが、それも果たしてどこまで有効なのかどうか。そこで現在、導入に向けて前向きに検討されているのが、「自動車にアルコールの検知機能を設置し、そもそも飲酒している場合にはエンジンがかからないようにする」という規制方法です。この手法を導入すれば、基本的に飲酒運転による事故は100%防ぐことができます(現実には抜け穴がたくさん開発されるでしょうが……)。この最後の規制方法が、レッシグの論じる「アーキテクチャ」に相当します。「規範」や「法律」という規制方法が有効に働くには、規制される側が、その価値観やルールを事前に「内面化」するプロセスが必要になりますが、「アーキテクチャ」は、規制される側がどんな考えや価値観の持ち主であろうと、技術的に(物理的に)その行為の可能性を封じてしまいます。そして東氏は、こうした「内面化」のプロセスが不要であるという点を、フーコーの「規律訓練型権力」と対比させつつ、アーキテクチャを「環境」と意訳することで、「環境管理型権力」という概念を構築しています(その詳細については、ウェブ上にアップされている「情報自由論 第3回:規律訓練から環境管理へ」を参照してください)。

ただし、実はこの飲酒運転の例だけでは説明が不十分です。もう一つ、レッシグが挙げているアーキテクチャの特徴は、規制されている側がその規制(者)の存在自体に気づかず、密かにコントロールされてしまう、というものです。上の飲酒運転防止装置の場合、その存在は明らかですが、より巧妙に規制が仕組まれるケースがありえます。例えば社会学者の宮台真司氏は、ファーストフード店の、椅子の堅さやBGMの大きさや冷房の強さの例を挙げています(MIYADAI.com Blog)。椅子を堅くしておけば、なんとなく居心地が悪いので、お客さんは長居しません。さらにお店が混雑してきたら、BGMの音量を上げ、冷房を強めることで、お客さんが気づかない程度に店内の不快指数を程度に引き上げ、ひいては店の回転率を向上することができる、というものです。お客さんの側で、こうした操作が行われていることに気づくことは困難です。

そしてレッシグは、商業化の進むインターネットの世界では(とはいえ2007年の現在では、インターネットの「商業化の進む」ということのニュアンスはもはや共有され難いものと思いますが)、こうした「アーキテクチャ」という規制方法によって、それを設計する側の都合のいいように、ほしいままに変更されてしまう危険性を指摘しました。その最たる例が、デジタル・コンテンツの不正コピーを制限・管理するDRM(電子著作権管理)技術、例えばCCCDやコピーワンス等です。要するに、著作権違法をどれだけ厳罰化したり、それが罪だと教育しても、P2PやYouTubeへの不正コピーはなくならない。であるならば、そもそも技術的にそれをできないようにしてしまえばいい、というわけです。このように、不完全なものに留まってしまう法律による規制を、情報空間上で完全に機能させようとすることを、白田秀彰氏は、「法の完全実行」と呼んでいます(ised@glocom 倫理研第2回: 白田秀彰 「情報時代の保守主義と法律家の役割」)。

さらにレッシグは、こうした著作権保護の「完全実行」が、自由な著作物の創造や表現を阻害してしまう可能性があると批判し、その自由を積極的に擁護していくためのプロジェクト、「Creative Commons(クリエイティブ・コモンズ)」の活動に着手したのは周知の通りだと思います。その詳細は、レッシグのその後の著作、『コモンズ』(翔泳社、2002年)や『Free Culture』(翔泳社、2004年。邦訳版の表紙には、大きく「いかに巨大メディアが法をつかって創造性や文化をコントロールするか」とプリントされています)等を参照してください。

■「権力バイアス」から自由になってみること(1-3)

さて、レッシグについての復習が長くなってしまいましたが、私がこのブログ名に採用している「情報環境」という言葉には、上(1-2 )に見てきたような、「アーキテクチャ=環境管理型権力」の概念を下敷きにしています。簡単に要約しておけば、その特徴とは、1)任意の行為の可能性を《物理的》に封じてしまうため、ルールや価値観の内面化のプロセスが必要なく、2)さらにその規制(者)の存在自体を気づかせることなく、被規制者が《無意識》のうちに規制を働きかけることが可能、という二点にまとめられます。

そして一点目の特徴は、時間が経過するにつれて、二点目の特徴を帯びるようになります。先に出した「アルコール検出装置」の例のように、その規制方法が登場した当初は、その存在自体は誰の目にも明らかです。ある日突然、いつも通っていた道に壁が出来るようなもので、それまで存在しなかった規制が登場するのですから、規制される側はそれを鬱陶しいと感じることができます。しかし、その規制が登場してしばらくの年月が立つと、それは《物理的な》制約から《自然な》制約へと変化します。DRM技術の数々も、登場当初は鬱陶しいものに感じられるかもしれませんが、はじめからその存在を当然のものとして受け入れてしまっている世代から見れば、それは所与の前提となってしまうように、です。

ただし、この研究ノートでは、こうした「アーキテクチャ=環境管理型権力」の概念は継承しながら、主にソーシャルウェアについての話題を取り上げていくことになると思うのですが、その論考の方向性は、レッシグとは大きく異なってくるのではないかと考えています。それは一言でいえば、「環境管理型権力に抵抗する」というような図式では考えない、ということです。さしあたり、レッシグが著作権管理強化の動向に抵抗したようには、何か「抵抗の論戦」を張るつもりは当座はない、ということでもあります。

「アーキテクチャ」にしても、「環境管理型権力」にしても、それはなんらかの《規制》や《権力》、つまり「人に何かを強制的に従わせるもの」という概念規定がなされています。すると不思議なもので、人は「権力」という言葉を聞くと、それに抵抗しなければならないと考えてしまう。それは何か私たちの自由や主体性(自由意志)を奪ってしまっているような気がしてしまう。これを池田信夫氏がよく使う言葉を借りて「権力バイアス」等と名付けてみるのもいいかもしれませんし(池田信夫 blog :「感情的」な電子政府)、あるいは宮台真司氏の表現をもじって、「権力と自由のゼロサム理論」(権力が増えれば自由は減り、自由が増えれば権力は減衰するというように、権力と自由の間に単純なゼロ和の関係が成り立っているかのように考えてしまう図式のこと)と呼んでみてもいいかもしれません(ちなみに『権力の予期理論』のテーマは、そうした図式を棄却するというものでしたが)。また東氏自身も、「情報自由論」について、昨年行われたCNET Japanでのインタビューで「あまりにも左翼的な監視社会論に近くなってしま」ったと振り返っていますが(CNET Japan:批評家とエンジニアが予測する2045年の世界--プロジェクト「ギートステイト」)、それは「環境管理型《権力》」という概念それ自体が、上のようなバイアスを引き起こしてしまいがちだからなのかもしれません(念のために補足しておけば、「情報自由論」は、特に「表現の/存在の匿名性」を巡る論考をはじめとして、単純な監視社会(批判)の図式に収まらない論考ですが)。

もちろん、これはいうまでもありませんが、環境管理型権力がベタに適用され、ほしいままに人々が管理されてしまうシーンやケースは、まだまだ沢山存在する(というよりもこれから出てくる)と思います。私はそうしたものに対する抵抗を否定するわけではありませんし、上のような「権力バイアス」が非合理的だと批判する意図は一切ありません。ただし、この情報環境研究ノートでは、そうしたバイアスから少しでも自由になってみることで、「情報環境(アーキテクチャ)」の多様な可能性について明らかにしてみたいと思っています。Wired Visionのコンセプトは「"アカルイ未来"の創造力」と銘打たれていますが、まさにそのための道具として、「情報環境」を捉えていくこと。それが私のスタンスです。おそらく迂回路も沢山通っていくことになると予想されるのですが、どうぞお付き合い頂ければ幸いです。

フィードを登録する

次の記事

濱野智史の「情報環境研究ノート」

プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。