CSR(企業の社会的責任)の退屈に救いを!
2007年11月 7日
みなさん、はじめまして。藤井敏彦と申します。今日からCSR(企業の社会的責任)を書いていきます。よろしくお願いします。独立行政法人経済産業研究所というところで二足目の草鞋を履かせてもらいCSRやその他いくつかの事柄につき時折思い出したように書き物をしています。このブログではCSRという舶来の概念を使いながら日本の社会、日本の会社、日本の外の社会、日本の外の会社のことを考えていきます。なお、この場で書きつづりますことはワタシが所属する組織の見解とは関係ありません。極めて私的な陳述でありますので、念のため。もっとも、「公式」なCSR論を求めておられる読者はもとよりあまり多くないかもしれませんね。
初回ですし、ワタシのCSRへのアプローチは唐突に論ずると異端審判に召喚されかねない類のものですので、皆様のコンピューターの画面に出現するに至った経緯などを小出しに交えながらスッテプバイステップでいきたいと思います。
今をさかのぼること7年前の2000年ワタシはベルギーの首都ブラッセルでロビイストとして働き口を得ました。(「ブラッセル」と言うと「ブリュッセル」のこと?と聞かれることがあります。「ブラッセル」は'英語読みで、「ブリュッセル」は仏語読みです。どちらでもOK。)今でこそEUに対するロビイングは当たり前のことになっていますが、当時はまだまだ斬新。面白く楽しい仕事でありました。
ロビイストとして欧州委員会の官僚や欧州議会の議員と渡り合う中で連中の好い加減さに辟易することもありましたが、一つ感心したことがあります。EUの政策作りの大きな特徴は、時間をかけるということです。一つの法律を作り出すのに政策コンセプト作りからはじめて10年からの時間がかけられることもあります。CSRもその一つです。CSRというコンセプトが形をなすまでには長い思考と議論の過程がありました。「日本的経営」の美点が過度に一般化され、「長期的視野の日本」対「短期志向の西欧」という思い込みがあります。経営論的には一定の真実があるかもしれませんが、理念や政策思考を見る限りおそらく逆が真実に近いと思います。この時間感覚の差は今でも解消されない日本のCSRの微妙な「ずれ」を説明する上で有効だと思います。この点はおいおい。
いずれにせよ、日本では「CSR」という言葉が伝わった後、数年の沈黙を経て突如爆発的にCSR論が沸き上がります。もちろん、この爆発のトリガーを引くという我が国CSR史上記憶されるべき役割を果たした会社は今更言うまでもないでしょう。三菱自動車さんであり、雪印さんであります。世にはCSRの「権威」や「第一人者」が華々しいデビューを飾ります。
もっとも、日本の反応の鋭敏さそのものが悪いというわけではありません。ただし、何事も作用には反作用がつきもの。「CSR論は戦前の修身の教科書のよう」という辛口批判も出てきます。この批判を目にし、ワタシは「まったくしてごもっとも!」と喝采しつつ苦味のある大笑いを禁じえなかった。もちろん、修身の教科書を読んだことがない身にはこの批判の本当の評価はできないのですが、もし修身の教科書が「退屈なお説教」の比喩として使われているとすれば、あながちまちがっていない。だからこそ、これから退屈なCSRへの救済を探っていきましょう。未来は退屈ではないはずだから、きっとCSRにも救いがあるでしょう。退屈ではないCSRは未来を明るいものにしてくれるにちがいありません。
そうそう、先ほど「異端審判」と申しましたが、高校の世界史の授業でニカエアの公会議を勉強しましたね。そうです、西暦325年、コンスタンティヌス帝がキリスト教の基本をまとめるため召集した会議です。以来、父と子と聖霊の三位一体論は公式教義となります。神の子であるキリストは父なる神の神聖を完全に備えていたはずはない、との論が異端とされた歴史上有名な公会議の一つです。教科書の厚さにもめげずに世界史を選択した果敢な諸兄は記憶をたどればどこかにあるはずです。
最初の回はこう締めくくりましょう。日本のCSR業界が奉ずる公式教義は法令遵守と社会貢献とお客様満足の三位一体論であると。
藤井敏彦の「CSRの本質」
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