このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

増井俊之の「界面潮流」

「界面」=「インタフェース」。ユーザインタフェース研究の第一人者が、ユビキタス社会やインターフェース技術の動向を読み解く。

第16回 知識の呪い

2007年12月21日

能力が無い人には能力がある人のことを想像することはできません。モーツアルトはどういう精神状態で作曲していたのかとか、イチローは何を考えながら打席に立っているのかといったことを想像することは困難です。自分に作曲や野球の才能が有るかどうかは誰でもすぐわかりますから、こういったことが問題になることは少ないのですが、自分に才能が無いのに有ると思って行動すると不幸なことが起こる可能性があります。

逆に、能力や知識が有る人は、それが無い人の状況を想像することができないものです。数学がよくできる先生は、数学の苦手な生徒の頭の中を想像することはできませんから、生徒のレベルに合った教え方を工夫することができず、「何故この生徒はこんなことがわからないのだろう」という印象を持ちがちです。昔はその先生も生徒と同じような心境だったことがあるかもしれないのですが、技術や知識を一度獲得してしまうと、それ以前の状況を思い出すことは不可能です。誰でも子供のころは字が読めなかったはずですが、大人になってしまうと、漢字を読めない人が日本語の文章を見たときの気持ちを想像することは難しいでしょう。一流のプレーヤが必ずしも一流の指導者になれないのも同様の理由です。

知識を得ることによって知識が無いときの状況がわからなくなるという現象は「Curse of Knowledge」(知識の呪縛)と呼ばれています。Heath兄弟によるMade to Stickという本では、知識の呪縛の例として、1990年ごろStanford大学のElizabeth Newtonが行なった「Tapper and Listener」という実験が紹介されています。ふたりの被験者のうちひとりが頭の中に何か曲を思い浮かべ、そのリズムでもうひとりの肩を叩いて何の曲かを当てさせます。たとえば「どんぐりころころ」を頭に思い浮かべた場合は「タンタタタタタタ タンタタタ」というリズムで肩を叩きます。いろいろな曲を使って実験を行なった結果、肩を叩かれた人は実際には2.5%ぐらいしか曲を当てることができなかったにもかかわらず、叩いた方の人間は50%ぐらい当たるだろうと予測していたことがわかりました。曲を思い浮かべている人間にとってはリズムと曲との結び付きは自明だったわけですが、予備知識が無い人間にはそれをほとんど理解することができなかったことになります。知識を持つ人と持たない人の感じ方の違いは甚大です。

知人のサイエンティストがエンジニアリング的に疑問がある発言をするのをよく耳にしたことがあります。優秀な人が何故変なことを言うのかずっと不思議だったのですが、その人物に工学的センスが無いのが原因だということに気付くにはかなり時間がかかりました。私の周囲には工学的センスを持つ人が多いため、それを持たない人のことを想像することができなかったわけです。また私はアメリカやヨーロッパで道を尋ねるのに失敗したことがよくあります。ホテルや店の人に地図を見せて道順を聞いたとき、いろいろ難癖をつけられて教えてもらえなかったことが何度もありました。実は彼等は地図を読むことができず、それを隠すために変な理屈を言っていたのですが、それに気付くまでは相当不思議な思いをしたものです。これらはすべて知識の呪縛にもとづく失敗だったといえるでしょう。

第4回で紹介した画像なぞなぞ認証のような手法が流行しないのも、知識の呪縛が影響している可能性があります。画像なぞなぞ認証では、自分だけが詳細を知っている写真を問題として選ぶ必要があるのですが、自分がある写真の詳細を知っているときは他人もそれを知っているような気がしてしまいますから、認証問題として強度が弱いように錯覚しがちです。逆に、自分が覚えにくい変なパスワードの場合、他人にとっても破るのが難しいだろうと勘違いしがちです。知識の呪縛が存在する限り、この問題を解決するのは難しそうな気がします。

自分が作った機械を世の中に普及させたいのであれば、自分以外の誰もが使えるようにする必要があります。他人の嗜好や考え方を充分想像することができなければ、自分だけしか使えないシステムしか作ることはできないでしょう。他人の頭の中を知るのは難しいことですが、常に他人からのフィードバックに耳を傾けるような努力が必要だということを充分認識していれば、知識の呪縛のために失敗する可能性を最小限にすることは可能でしょう。第14回に書いたように、毎日が同じことの繰り返しだと時間が経つのが速くてつまらないものですが、身近な他人の自分との違いに気をつけていれば、いつも新しい発見があって人生が豊かになり、失敗も減らすことができるかもしれません。

フィードを登録する

前の記事

次の記事

増井俊之の「界面潮流」

プロフィール

1959年生まれ。ユーザインタフェース研究。POBox、QuickML、本棚.orgなどのシステムを開発。ソニーコンピュータサイエンス研究所、産業技術総合研究所、Apple Inc.など勤務を経て現在慶應義塾大学教授。著書に『インターフェイスの街角』などがある。

過去の記事

月間アーカイブ