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佐々木俊尚の「電脳ダイバーシティ」

ITの進化が加速させるネットとリアルの融合──最先端の動向をジャーナリストが追う。

【はじめに】人が創るデジタルと世界との境界

2008年10月14日

 しばらく前の話になるが、6月に横浜で「エレクトリカル・ファンタジスタ2008」というメディアアートの展覧会があった。メディアアートというのは定義の難しいジャンルだが、メディア(媒体)によってフィルターされることで、リアルの物体やバーチャルのオブジェクト、さらには人間の感覚などがどう変化していくのかを探る表現のことだ。

 この古い官庁の建物の中で行われた展覧会で、ひときわ小さな展示があった。白い台の上に、小さなレコード盤のような装置ががいくつも並ぶ。真壁友さんと天野由美子さんのコラボレーション『Sometimes I'm Happy』。これはYoutubeでも観ることができる。

 天野さんは、アリクイがモチーフになったこの小さな白いキャラクターを「チムニー」と名付け、さまざまな表現を行っている。『Sometimes I'm Happy』は、長岡造形大学の真壁さんが作成したターンテーブル状の装置の上にこのチムニーを乗せ、回転させたものだ。見ればわかるように、ボタンを押すと回転が始まり、目の前でチムニーが見事に踊り出す。立体を使ったコマ撮りアニメーションが、目の前でアナログに再現されるのだ。アニメーションといっても、秒24コマで動くなめらかな映像とはほど遠い。どちらかといえば高校生のころ、授業時間にこっそり教科書のページ角に描いたパラパラマンガのようなカクカクとした映像だ。

 何度もボタンを押してこのカクカクとしたアニメーションを眺めていると、デジタルとアナログの関係が視覚的にずれていくような違和感を感じはじめる。アニメーションは本来、アナログの世界をデジタルで表現し、そのデジタルの密度を高めることによってアナログに近づける技法だったはずだ。だが目の前で行われているチムニーのアニメーションは、アナログがデジタルの装いをまとって、デジタルを一生懸命真似ている。しかしカクカクとした動きは出来の悪いデジタルだ。

 デジタルはアナログを志向して、アナログにできるだけ近づき、さらにアナログを凌駕しようとこれまで進化してきた。だが『Sometimes I'm Happy』でアナログ世界の住人であるチムニーたちは、アナログであることを恥じてデジタルを真似し、でもデジタルになりきれないみっともなさを演じているように見える。

 秒間24コマ描かれるアニメは、本来的な意味でデジタルである。アナログなセル画によって作成されたアニメであろうと、デジタルアニメであろうと、リアルの空間をコマによって分割してしまうという行為は、デジタルに他ならない。だが表現技法が上がってくると、そのデジタル性は観る側には意識されなくなっていく。映像に盛り込まれた情報の質が高まったことによって、アニメは実写の映画にどんどん近づき、そしてさらには実写の表現をいまでは部分的に凌駕してしまっている。

 本来、アナログであるリアルの空間には、膨大な量の情報が埋まっている。たとえばいま街角のベンチに座って、のんびりと眺めている景色。前方に見える建物の名称や目的。建築家、施工主、施工会社の名前。現場で働いた人たち。建物の素材。コンクリートはどこでミックスされ、砂利はどこから運ばれたのか。窓の強化ガラス、壁面のタイルの質感。いま建物に入居している企業。そこで働いている人たち。ひとりひとりの人生、そしていま彼ら彼女らの頭の中に浮かんでいる想念。

 しかしこのリアルの空間を撮影し、画像にしたとたんに、これらの情報の大半は失われる。

 たとえばブログ『レジデント初期研修用資料』は、医療業界におけるアナログ・デジタル変換の問題として、次のように書いている

見えたものをそのまま描写するのは時代遅れ。病理組織は免疫染色で定量化され、画像は数字で表現される。循環器の領域。心臓の動きや血管の狭窄度は、コンピューターが測ってくれる。デジタル化に伴って滅んだ学問、滅んだも同然の検査も多い。経静脈波。心尖拍動波。様々な心機図。ベクトル心電図。聴診や理学所見だって滅びつつある。これらの検査に共通するのは、数字で表すことができないという点だ。

デジタルデータは便利だ。それでも、「生データ」は常にアナログ情報だ。アナログをデジタル化する段階で中間情報は失われるし、医者はそのデジタルデータをみて、全体的に「悪い」とか「良くなってる」とか、総合的に、アナログ的に判断する。昔のお医者は偉かった。患者さんを聴診器一つで診断できたし、我々の世代では「わけの分からない波」にしか見えない経静脈波を解釈して、心臓の中の様子を予言する。いまは無理だ。アナログデータをアナログのまま解釈する技術はすたれてしまった。変換の過程で絶対に情報の欠けるデジタルデータと、言葉で表現すると絶対に正常を表現できないアナログデータ。

 撮影された画像も同様だ。画像の中に残っているのは膨大なリアル情報の中からすくい上げられた、わずかなデータしかない。質感や歴史、内部構造などは失われ、外観の形状と色のデータだけが残される。しかしそうやってすくい上げられた情報量の少ないデータも、たとえばハイビジョンのような人工的なほどにナチュラルに見えるテクノロジを使えば、目で見ていたリアルの画像よりもリアルに見えてしまう。つまりはスーパーリアリズム、リアリズムを超えた迫真のリアリズムだ。

 アニメーションは一方でスーパーリアリズムではなく、別のアプローチからリアルに迫ろうとする。情報の量の密度ではなく、フィルタリング精度を一気に向上させ、情報量を徹底的に削減し、しかしその一方でリアル空間から人々の頭脳に流れ込んでくるような見え方とは別のパイプラインを、アニメ画面と観客の眼との間に作りだすことによって、魔力的なリアリズムを生み出している。そこではアナログの表層的な画像からでは決してうかがえない、リアルの深層部が暴かれている。

 だから求められているのは、デジタル化がふるい落としてしまうアナログの情報を、いかにしてデジタルの世界で取り戻すのかというそのスキームなのだ。

 この連載で論考していこうと考えているのは、そのような問題である。

 かつてバーチャルでしかなかったインターネットは、2008年のこの時代に入って、ついにリアルの物理空間を浸食しはじめている。たとえば同年8月に日本国内でもスタートし、物議を醸したグーグルのストリートビュー。リアルの街角の風景を、地図に連動したイメージとしてアナログの光景をデジタル化し、検索可能にしている。しかしストリートビューで観察することのできるのは単なる街角の写真であり、そこに写っている建物や道路、構造物がいったいどのような名称を持ち、どのような大きさであり、そしてどのような意味を持っているのかは、いっさい明らかにされない。

 しかしストリートビューが進化していけば、ストリートビューの中の情報がさらに濃度を増していくことは十分にあり得る。たとえば街中に実際に存在する交差点や建物、レストラン、道路などに、デジタルのタグを加えていってバーチャル世界の中からもわかりやすく見えるようにしよう、という試みも行われている。アースマイン(Earthmine)というアメリカの会社は、ストリートビューのような街の写真を使い、その中に映っている建物や電柱、ゴミ箱、街路樹、マンホールなどの物体それぞれに、緯度と経度、高さ、名称などのタグを書き込みできるサービスを開発している。これによってリアルの物体のすべてが、ウェブページや電子メールなどと同じようにデジタル化され、検索可能になっていく。

 ストリートビューやアースマインのような地理空間情報サービス(GIS)は、アナログの世界をデジタル化する。このデジタル化の際に、アナログ的な身体性を維持しながらどこまでデジタル化できるか。これによって地理空間情報の持っている意味を簡略化せずに、複雑なままで――加えて、さらにその内側に潜んでいる意味までをもアニメのように暴露しながら――デジタル化することが可能になるのかどうか。

 ウォシャウスキー兄弟の1999年の映画『マトリックス』は、そうしたGISを究極に推し進め、バーチャルとリアルの境界線が消滅した世界を描いている。そのマトリックス世界では、アナログの身体性はどこまで維持されているのだろう。その世界では、どこまで痛感や触感が存在しているのだろうか。

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プロフィール

ITジャーナリスト。1961年生まれ。毎日新聞社、月刊アスキー編集部を経てフリーに。『フラット革命』(講談社)『ブログ論壇の誕生』(文春新書)など著書多数。有料メールマガジン『佐々木俊尚のネット未来地図レポート』配信中。http://www.pressa.jp/

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